つきあっている男、キタザワのマンションに南がひっこしたら、
そこには同居人がいた。
同居人がいることはキタザワからあらかじめしらされていた。
ひとりはキタザワの妻、マリコで(めんどくさいので離婚届をだしてない)、
もうひとりはマリコがどこかでであってつれこんできた
20歳のわかいおとこ、サトシだ。
彼らはキタザワのマンションにいそうろうしながら
部屋をめちゃくちゃにちらかしてくらしていた。
自分でゴミをかたづけるというかんがえがなく、
だしっぱなし、よごしっぱなし、つかいっぱなしを、
キタザワもふくめて3人が当然のようにつづけてきた。
「『ごみは捨てたい人が捨てるのよ』マリコが言った。
『ごみ捨てもご飯も、そのほかのことも全部、
やりたい人がやるのよ』」
「家の中はどこもかしこもひどい状態だった。
それを三人が三人とも平気で暮らしてきたらしい。
食事をするときや雑誌を広げるとき、
スペースが必要になるとキタザワはものをしまうことをせずただよける。
つぶれたビールの空き缶や脱ぎ捨てられたTシャツやマリコのシュミーズ、
濡れたタオルやレコード・ジャケットや古新聞古雑誌、
色とりどりに重なりあったおびただしい数のそれらはだから、
必要に応じて右へ左へ移動し続ける。(中略)
食器棚になぜか真新しいストッキングがつっこまれていたり、
下手をするとリビングに靴が脱ぎ捨てられていたりする。
洗濯物はベランダに近い床で山を作り、
風呂に入るときはみんなそこからタオルを持っていった。
使い終えたタオルもまたそうして床に放っておく」
南はあまりにも異常な状況におどろき、(当然だ)
彼らをおいだそうとするが、
かんたんにでていくようなひとたちではない。
ズルズルと部屋にいすわりつづけ
南がかたづけるはしからまたよごし、ちらかしていく。
この、ズルズル感が角田光代はうまい。
ひとの部屋にすみつき、よごし、
それをあたりまえのようにつづけるひとたちの世界が、
だんだんとどうしようもない既成事実におもえてくる。
あきらかに異常なのに、もうどうにもうごかしようがない。
ある日、マリコが外国へでかせぎにいくといいだす。
日本の演歌がはやっているから
のみやでピアノをひいてうたえば仕事がある、
と外国人のホステスにいわれたという。
マリコがそうやって外国へいって
仕事をさがそうとするのはわかるけど、
キタザワやサトシまでもいっしょについていこうとする。
キタザワは南にもいっしょにいこうと声をかける。
いったいキタザワはなにをかんがえているのか。
「どうしていつまでもあの人たちと一緒なの?」
「べつに意味はないよ
一人より二人、二人より四人のほうが
安いし楽しんじゃん」
「どこかほかの国で働くって、
手続きとかどうなってるんですか」
「さあ、知らない。べつにいいんじゃないの、
このあたりだって外国の人いっぱい働いてるし。
まあなんとかなるわよ。南ちゃんも行くでしょ?」
日本でやっていたようなくらしを、
ズルズルとどこかの国のどこかの町でもつづける気だ。
それほど世間はあまくなくて、3人はひどい目にあうのか、
それともへんに執着心がないぶん
外国のひとにうけいれられて
日本よりかえってのびのびとくらせるのか。
かたづけをしないのはだらしないことではあるけれど、
そんなひとたちはどこの社会にもいくらでもいるだろうし、
南みたいなきれいずきが
仲間にはいろうなどという気をおこさなければ、
彼らは自分がすきなようにきたない部屋にすみつづけるだけだ。
そのことでだれもこまりはしない。
生活力がまったくない彼らも、
お金さえある程度あれば
外国でもなんとか生きていけるかもしれない。
この小説のテーマは、「かたずけられないひと」のグループが、
外国でどうくらしていくか、であるはずがないのに、
わたしの関心はそっちにかたむいてしまった。
自分で責任をとったことがないひとが3人あつまったら、
どんな集団になるだろう。
きっと、なにもかわらない。
キタザワは1ヶ月くらい、なんて
気やすいことをいうけど、
けっきょくズルズルとマリコたちとすごすことになるのだ。
それもまあいいか、と、このごろはいつも
おなじ結論にいたる。
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