ときどきでかけるお好み焼き屋さんによった。
わたしが大学生のときにも深夜によくお世話になっていたので、
すくなくとも、もう30年以上つづいている店だ。
わたしといっしょか、すこしうえくらいの女性が、
いつもひとりで淡々とお店をきりもりしている。
もうずいぶんまえに、お腹がおおきくなっているときも、
やっぱり彼女はかわらないようすではたらいていた。
メニューはお好み焼きとヤキソバだけだ。
通路をはさんで4つずつ、4人がけのテーブルがおかれている。
注文をきくと鉄板に火をつけ、
あたたまったころをみはからってテーブルにあらわれる。
あいそがないともいえる乱暴な手つきで
具をボールのなかでざっとかきまわし鉄板にうつす。
片面がやけ、そろそろひっくりかえさないと、というころになると、
ちゃんとまたテーブルにやってきて、2つのコテでうらがえす。
バラバラにならないように気をくばるわけではなく、
テキトーにひっくりかえしてるようなのに、
お好み焼きはけっしてぐちゃぐちゃにはならない。
やきかけのおこのみやきは、
絶妙なやわらかさをたもった状態でうらがえされ、
それをコテでてきとうによせて形をととのえると
お好み焼きらしい姿になっている。
そしてまた、しばらく時間をおき、
わすれられたんじゃないか、というころに女主人がやってきて、
最終的にひっくりかえして、ジャジャジャっとソースと青のりをちらす。
鉄板の火をとめ、人数分の皿とコテをテーブルおき、
「よかったらマヨネーズをつかってね」といって席をはなれる。
どんなに店がこんでいても、
注文をきき、鉄板に具をのせ、適切なときにひっくりかえし、
ということを彼女は着実にくりかえすだけだ。
このお好み焼きがなぜおいしいのかよくわからない。
ネギがはいっているわけでもないし、
トロロいもがたくさん、というわけでもない。
あんまりかきまぜないのはひとつのコツみたいだ。
キャベツがおいしいのはたしかだけど、
特別なかくし味がなにかきかせてあるわけではない(とおもう)。
その生地が、なんであんなにやわらかいけどバラバラにならずに
まとまっていくのかが、いつも不思議でならない。
不思議なのでほかのテーブルのようすもついうかがってしまう。
はじめてこの店にきたらしいお客が
女主人のいっけん乱暴なつくり方におどろき、
しかしたべはじめると納得したようすをみせるのがおもしろい。
お好み焼きもヤキソバも、
つくる側がかいがいしく手間をかける料理ではない。
えらそうにいわせてもらえば、鉄板に仕事をさせるのであり、
手をくわえるよりも「まつ」ことが仕事みたいな料理だ。
この店が、女主人ひとりでやっていけるのも、
じょうずに鉄板に仕事をさせているからであり、
女主人が配慮しなければならないのは、
どれくらいの時間でひっくりかえすかを
8つのテーブルについて適切に把握することだ。
ひとつのテーブルで鉄板に具をのせ、
別のテーブルでひっくりかえし、
もうひとつあいたテーブルにある鉄板で
ヤキソバをつくりはじめ、と
お客がまたなくてもいいように
時間を絶妙に調節しているのがうかがえる。
それをバタバタやられると、
お客としてはおちつけないが、
この女主人のペースがかわることはなく、
いそがしそうなそぶりをまったくみせない。
ゆうべみたいに花火かえりの客でいっぱいの日でも、
具をのせ・ひっくりかえし、というのをくりかえし、
そのあい間にテーブルのソースを補充したり、
ヤカンをもってあるき、あいたコップに水をつぎたしていく。
おどろくべきことに、
彼女は30年まえから、すでにこの黄金の三角運動を獲得しており、
当時からいまとおなじ淡々とした態度で
絶妙なお好み焼きをやいていた。
夕方から営業をはじめ、深夜までやっている店なので、
どんなにおそい時間にいっても
なんねんかの空白のあとにおとずれても、
彼女の店とお好み焼きはかわらずにわたしをうけいれてくれる。
音楽はまかないにラジオがかかっているだけで、
きのうは井上陽水の『夢の中へ』がかかっていた。
30年間おなじ店でお好み焼きをやきつづける人生。
彼女はなんらかの理由でそれをえらび、
自分の仕事としてこれまでつづけてきた。
わたしがときどき彼女の店にいきたくなるのは、
いつもかわらないでいてくれる店を
たしかめたいという意味あいがつよい。
わたしの学生のころをしり、
結婚し子どもができ、その子がもう親とはでかけなくなっても、
この店はかわらずにおなじ場所にたち、
女主人がわたしをむかえてくれる。
常連というわけではなく、したしくはなしたこともないけれど、
自分がすむ町にこの店があるのは
わたしにとって大切なことのひとつだ。
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