家族を愛せない川島氏から、妻とむすこがはなれていく。
川島氏の妻は、川島氏から無条件の愛をもとめ、
しかし川島氏は妻にたいして常に論理的であり、
理由のない愛をむけることはできない。
むすこは川島氏ににくしみをむけるようになり、
もはや修復が不可能な関係になっている。
これらの状況は、中島義道氏の著作のおおくに紹介されている。
川島氏はあきらかに中島氏で、
中島家の夫婦間、親子間の対立が、
そのままこの本にえがかれている。
家族間に生まれるどうしようもない感情のいきちがいを、
私小説というかたちで延々とほりさげる。
「自分の弱さを武器に彼を支配しようとする態度が、
肌にこびりつく痰のように汚らわしい。
と同時に、妻に優しくしてやれない自分に対しても、
寒々としたものを感じる。
それをよく知っていながら、優しさを要求する妻が惨めであり、
それがそのまま自分の感染して恐ろしく居心地が悪い」
ふたりが相手にもとめる要求は、一致することなくからまわりするだけで、
お互いがこころから納得できる折衷案はみつけられない。
「『私を愛して』と言えないから『息子を愛してくれ』と言う。(中略)
憎悪の燃える眼で『そんな形だけのことでは純真な十四歳の少年の心には通じない、
そんなことさえわからないあなたは最低だ、絶望的だ!』と叫び続ける。
このすべては、『あなたに甘えたい、でもできない!』
という彼女の苛立ちを語っている」
「それにしても、博司(むすこ)はなんと正確に
母親の気持ちを察知してその期待通りに動いていくことであろう。
自分が父親を許さなければ許さないほど、
父親に辛く当たれば当たるほど、母親は苦しむ。
しかし同時に、彼は母親の眼に喜びが灯るのを見るのだ。
『ひろ、そんなにパパが嫌いなの?』と
確認する母親の言葉のうちに、明るさが広がるのを聞き取るのだ」
なんと不毛な関係だろうと、はためにはみえるが、
中島氏と妻との関係は、こわれそうになるギリギリのところでとどまっている。
ふたりとも、できればわかれずにこのまま夫婦でありたいとおもっている。
しかし、息子は14歳という年齢でもあり、
みじかい期間に父親との関係が改善されるみこみはなさそうだ。
おたがいにもうすこし相手のことをおもいやれば、
などという対処でなんとかなるような
そんななまやさしい関係ではない。
これは異文化の対立問題なのだ。
この本は、はじめ『ウィーン家族』という題名で出版されており、
文庫本にするにあたり『異文化家族』にあらためられている。
文化とは、それぞれの民族がもつ価値観の総体であり、
ちがう文化をもつものどうしが、
相手の価値観を全面的にみとめることはない。
異文化は、まじりあいはしても、統合されることはなく、
中島家の夫婦も、おたがいが相手の主張を
こころからみとめあうことはないだろう。
異文化どうしが相手の価値観をみとめあることはありえないので、
どちらがただしいか、という問題ではない。
むすこは、母親の価値観をうけつぎ
父親をにくむようになった。
これからながい年月をかけて形ばかりの妥協点をみつけていくか、
完全に無視しあうより方法はないだろう。
むすこからにくまれるなんて、
父親としては非常につらい状況だが、
中島氏が自分の文化(価値感)を尊重しようとするかぎり、
むすこに表面的なあゆみよりはできない。
それが異文化同士が対立すつときの厳格なきまりだ。
この小説は、家族のなかに異文化問題が発生した場合、
決着をつけるのは絶望的に困難、
というより不可能なことをあきらかにしている。
「性格の不一致」などという、ぼんやりしたなれあいではなく、
異文化どうしのきびしい対立だ。
国と国とのつきあいでは、決定的に関係がこわれてしまわないために
すぐれた外交が必要となる。
家族での「異文化」問題はどう処理されるべきなのだろう。
わたしは、「異文化」ととらえた時点で、
すでに解決をあきらめているようにおもう。
中島氏とその妻のように、対立しつつも最後の一線をこえないようにするか、
むすことの関係のように、没干渉とするしかない。
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