2013年09月18日

2どめの『風立ちぬ』

ずいぶんまえのブログに、
2どめからがほんとうの理解かも、
というようなことをかいたことがある。
2どめに体験する映画や読書が、
最初の印象とまるでちがうことがおおく、
1どめはいったいどこをみていたのかと
唖然としてしまうことがあるからだ。

10日という間隔で2どめの『風立ちぬ』をみた。
今回は、配偶者をさそい、日曜日の朝いちばんの上映をえらぶ。
30人ほどのお客さんで、親につれられた子どもが2人いた。
2人とも通路をはしることなく、さいごまでおとなしくみていた。

結論からいえば、2どめの『風立ちぬ』は、
さいしょにみた感想と、
そうおおきくかわるものではなかった。
ながい間隔をおくから2どめのときに
記憶とまったくちがう印象をもつのであり、
たった10日という間隔では
感想がかわらなくてあたりまえだろう。

2どめの今回のほうが、おちついて映画をみることができた。
前回は、『風立ちぬ』をようやくみるということで、
ちょっとした興奮状態にあり、
すべてを目にやきつけ、それを理解しようとした。
そのせいか、作品全体をみとおす余裕がなく、
気づいたらラストだった、というかんじだ。
おおざっぱにいってしまうと、
前回は飛行機をつくるという二郎の夢として、
今回は二郎と菜穂子の恋愛を中心に作品をみていた。

「あれがきみのゼロかね」と、カプローニ伯爵が
二郎の設計したゼロ戦をほめる。
ゼロ戦は、うつくしいラインをえがき、すべるようにとんでいく。
ひとが操縦しているというより、
まるで空を自由にとぶ鳥みたいだ。
二郎は効率のいい殺戮兵器をうみだす仕事がしたかったのではない。
うつくしい飛行機をつくるという夢にむかいつづけた10年だった。

二郎は菜穂子につきそわず、仕事をつづけようときめる。
そのことが、どれだけ二郎をくるしめていたか
今回はよくわかった。
妹に「菜穂子さんをどうするつもり!」と非難されても
二郎は飛行機づくりからはなれない。
これはふたりできめたことなのだ。
のこされたすくない時間を、
覚悟しながら大切に生きるしかなかった。

こまかいところでは、あまりおおくをかたらない
二郎のはなしかたをこのましくおもった。
菜穂子のお父さんに二郎が、ふきとばされたパラソルをわたす。
「ではこれで」
ほんのみじかいあいさつだけだ。
だらだらおしゃべりをつづけるのではなく、
愛想がないくらいすぐにきりあげるのが、
むかしふうでいいかんじだ。
二郎も、菜穂子のお父さんも、淡々としている。
ほかの場面でも、二郎は相手が歳うえだからといって
とくべつかまえることはないし、
職場の上司にたいしても卑屈な態度はとらない。
自分のやることに自信をもち、
ものごとに執着しないひとのふるまいとは
こういうものなのか。

とはいえ、駄菓子屋さんで、
「シベリアを2つおくれ」
「おくれ」ということばづかいにひっかかる。
「ください」のほうがわたしには丁寧におもえる。
むかしの関東地方では、こういういい方が
ふつうにされていたのだろうか。

配偶者に映画の感想をたずねると、
「実写にすればよかったのに」
といっていた。
たしかに実写のようなリアルな画面がそうおもわせる。
しかし、大正・昭和のひとたちの表情やたちふるまいを、
いまの役者さんが再現できるだろうか。
ちょうど予告のCMとして『永遠の0』が上映のまえにうつされた。
ゼロ戦がとび、戦艦がしずんでいく。
この作品は、時代の空気をどれだけ再現できたのだろう。
CGを駆使しても、すべてが可能になるわけではない。
宮崎駿さんが、いまのわかいアニメーターには
日本の自然がかけない、といっていた。
みたことがなければ、体験したことがなければ、
説得力のある絵はかけないそうだ。
えんじることも、かくこともできなくなったいまの人間にとって、
『風立ちぬ』は日本の近代をリアルにえがき、
当時の空気はつたえるさいごの作品なのかもしれない。

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posted by カルピス at 09:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 宮ア駿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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