2013年09月24日

『にっぽん全国百年食堂』(椎名誠)民俗学的な価値のあるすぐれたルポ、かもしれない

『にっぽん全国百年食堂』(椎名誠・講談社)

「百年食堂」とは、百年もつづいている食堂、という意味で、
全国のそうした食堂を、毎回2軒ずつ紹介している企画だ。
ながくつづいた店のことなんか、
たいしておもしろくなさそうにおもえるのに、
そこはさすがに椎名さんのうまいところで、
おもわずひきこまれてさいごまでよんでしまう。
日本一の麺の店をきめる『すすれ!麺の甲子園』など、
食に関する椎名さんの本はたくさんあるなかで、
この本がいちばんおもしろかった。
百年食堂というテーマが、意外と新鮮なことによんでいるうちに気づく。
どの店がうまいかはそれぞれの主観でしかないが、
なぜながくつづいてきたかは
客観的な分析が可能になる。
いっけん平凡なはなしからおもしろさをひきだせる、
椎名さんのもち味がいかされた企画だ。

本文のなかで、なんどもくりかえし強調されているのは、
「味は関係ない。とにかくつづいてきたことを評価する」という視点だ。
おいしい店を紹介するのではなく、
その店がどれだけその土地に根づいているか。
そうはいっても、きょくたんにまずければ
ながくはつづかないだろうから、
つづいてきたというだけで、あるレベルにはたっしている(はず)。
その店が、どうはじまり、どういうメニューに人気があって、
これからどうしようとしているのかを椎名さんがききだしていく。
後継者問題や経営的なみとおしなど、
全国にちらばるふるくからの店の現状が記録されるので、
あとがきにもあるように、すぐれた民俗学の資料ともいえるだろう。

スタッフのひとり、おおぐいのヒロシ氏の存在があって
はじめてなりたつ企画でもあった。
あたりまえに4〜5品をたべてしまう氏の胃袋がなければ、
いちにちに2軒をたずね、
その店の人気メニューを全部ためすことなどなかなかできない。
ただたくさんたべるだけでなく、
「後継者がいない店はスイーツがない」という法則も発見したりする。
これは、あまいメニューがなければ女性客がよりつかず、
よって店ではたらくひとのやる気がでない、というもので、
たしかにいいところをついている、ような気もする。

ヒロシ氏のコメントは、グルメ番組のタレントレポーターでは
まずいえない域にたっしている。
たべることがほんとうにすきだからだ。

焼肉定食をかきこみながら
「これはね、強い火で手早く炒めているから味がおさえこまれているんです!
ごはんがすすむ味の急所を押さえていながら全体はさりげない。
ごはんはやっぱり喉ごしなんですよ。
つまり弁証法的にいうとどんぶり飯を食べるときのポイントを
控えめながらも大胆にとらえてはなさない。
腰がすわっているという感じですな」

といわれてもよくわからないが。

おおもりで有名な「大室屋」は、
ご飯がみえないくらいたくさん具のもられた
天丼やカツカレーがでてくる。
部活のおわった高校生がよろこんでくるかとおもうと、
このごろはそうでもないそうで、
ケータイにおこづかいをとられてしまい
こういうお店にお金をかけられないのだそうだ。
こういうところに現代の世相があらわれるのが
「いってみなければわからない」ルポものの
おもしろいところだ。

ソースカツ丼についての記事もおもしろかった。
関東には、カツ丼といえばソースカツ丼という地域がおおく、
東京は長野・群馬・福島・山梨という
これらの地域に包囲されている状況なのだそうだ。
はじめてソースカツ丼をたべた椎名氏は

「カツが違う。薄いのは火をよく通すためか。
外側のパン粉がパリパリして噛みごたえがあり、
しっとりしたごはんのソースが色っぽい。
ごはんとカツは離反するでもなく同化するでもなく、
どちらもきっぱりと自分の道を歩みながらも
互いにさりげなく手と手を差し伸べにぎりあい、
たゆまない調和と、底力のある共存的繁栄のなかを
ゆるゆると前進しているようだ」

と、いかにもシーナ・マコト的文章で
そのおどろきをあらわしている。

岩手にはあんかけカツ丼というのもある。
地元で「すっぽこ」とよぶあんをかけるもので、
この「すっぽこ」の語源はながさきの卓袱(いっぽく)にあるそうだ。
「長崎ー京都ー山形ー岩手、という伝播ルートが考えられる」
なんていわれると、すごくアカデミックなかおりがする。
稲作はどのルートをたどってひろまったのか、みたいに
食のひろまりもロマンがあったのだ。

本のおしまいにある「あとがきみたいな座談会」がまとめにもなっている。

・土地に根ざした味がある
・家庭の事情(相続とか病気など)がない
・長くやってても特別うまいというワケではない

この「三つのファクターが百年食堂を作る」(椎名)
というのが結論だ。

「どこも印象として淡々としてましたね」
「どっちかというと、辞めても何もすることもないから
食堂をやっていつの間にか百年経ってたっていう店が
ほとんどだったんじゃないかなあ」

「あんまり美味しいと儲かって儲かって・・・」
「支店とかを出して・・・」
「失敗する・・・」
「そうやって淘汰されていくんでしょうね」(中略)
「やっぱり欲が最大の敵なんでしょう」

含蓄のあるはなしだ。
結果としての百年であり、めざせ百年ではなかったということ。
また、「名物を売りにしていたところは少なかった」
というのもかんがえさせられる。
三つのファクターのうちのひとつ、
「土地に根ざした」というのは
その土地の名物という意味ではなく、
土地のひとがふつうにたべるものを、ということだ。
とくにうまい品をださなくても、欲がなく、
地元のひとがきてくれる店であることが、
ながくつづけられる要因だった。

残念ながら島根県の店はひとつも紹介されなかった。
きっとわたしのすむ町にも、淡々とお店をつづける
いっけん地味な百年食堂があるのだろう。
「おもてなし」とか「お客さま第一」なんて
もっともらしいことをいわないで、
きょうもきのうも、そしてあすも、
おなじことをなんとなくくりかえしたら
百年たっていた、という向上心のないはなしが
わたしはだいすきだ。
やめなければいつかは百年たつ。
あんがいそれは、本人がきめるというよりも、
地域がもとめた結果かもしれないし、
ただ運がよかっただけかもしれない。
これまであまり光のあたらなかった、
ただつづけてきたという店に着目したおもしろい企画だ。
それらのながくつづいている店で、常連客やシーナさんたちが
カツ丼やラーメンやカレーライスをわしわしかきこんでいると、
食べることは生きることなんだと素直におもえてくる。
いわゆるグルメでも、かといってB級グルメでもない、
ごくあたりまえに食堂でたべることのできる
カレーライスやカツ丼にこそ
日本の食文化の真相がつまっている、ような気がする。

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posted by カルピス at 23:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 椎名誠 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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