配偶者の実家へでかける。
いつもながら「ありがたいお経」は
きいていても意味がわからない。
お寺の行事は、とりとめのないことを
頭のなかでひねくりまわしてすごすくるしい時間だ。
『ブータン仏教からみた日本仏教』(今枝由郎・NHKブックス)をよみ、
自分たちのことばにお経を翻訳していないのは日本だけ、
ということをしった。
どんなおしえであるのか、わかったうえでありがたがるのではなく、
ただお経の雰囲気によっているだけなのだ。
「日本だけ」ということは、かならずしもわるいことではないが、
この場合、意味もわからずありがたがってきいているのは
あきらかにこっけいである。
「日本だけ」になにか特別な理由があるのだろうか。
きょうの法事では、はじめにお寺さんが
「ひとの一生はながいようでみじかく・・・」
みたいなことを多少かたぐるしいけれど、
きいてわかることばではなされる。
そうそう、これでいい。やればできるのだ。
でも、そのあとは「これからが本番」みたいなかんじで、
外国語によるお経(つまりふつうのお経)となった。
きいていても意味がわからないので
ただ我慢しながらひたすらおわるのをまつ。
なくなった義母の生前をしのぶのに、
ほんとうのところ、そう時間はかからない。
のこりの膨大な時間をどうすごすか。
きょうの法事にこられたひとばかりでなく、
日本中でおこなわれている葬儀や法事でお経をきいているひとたちは、
いったいなにをおもっているのだろう。
意味がわからない言葉をずっときいているときに、
どうすごすのが正解なのか。
明石家さんまさんが、修行中にそうじをしているとき、
師匠から「そうじはおもしろいか?」
とたずねられたはなしが「ほぼ日」で紹介されていた。
さんまさんが「おもしろくない」とこたえると、
師匠は「そうじはおもしろくないにきまっている。
それをどうやっておもしろくしようかと、かんがえるとおもしろくなる」
みたいなことをいわれたのだそうだ。
お経をきくことがおもしろいわけがない。
おもしろくするにはどんな工夫が有効だろうか。
葬儀や法事から頭をきりかえて想像をはたらかせたり、
おわったあとに自分への「ごほうび」を設定するのは
だれでもおもいつくだろう。
でも、お経そのものに興味がもてれば、
そんなくるしまぎれの工夫は必要ではない。
きいていて意味がわかるお経、
というのがいちばんの解決策なのではないか。
きょうの法事は二部構成で、15分の休憩をはさんで
後半がはじまった。
お経の意味をさぐる努力は放棄して、
なにかひとつのテーマをかんがえようとおもっていたら、
それからの時間は小冊子をいっしょによむ、というやり方になった。
本をひらいても、外国語であることにかわりはないので、
きいていても、よんでみても意味はわからない。
お経とはそういうものだ、ときめつけるのは乱暴な意見である。
なぜいつまでもこのスタイルがかわらないかを
ユーザーであるわたしたちはかんがえたほうがいいし、
お寺もまたお経の権威にあぐらをかくべきでもない。
きいても意味のわからないひとたちにお経をよむお寺さんと、
それを無条件にありがたがるわたしたち。
「王様ははだか」なのではないか。
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