母と配偶者がさきにたべ、そのあといれかわるようにわたし、
すこしあとに高1のむすこと、
4人がほぼバラバラの朝ごはんだった。
わたしが自分のお雑煮を準備していると、
洗濯をしていた配偶者が台所に顔をだし、
「おもちとみそ汁の両方があるから」という。
「あけましておめでとう」もなし。
ただ、おもちとふだんのご飯の両方からえらべ、とつたえただけだ。
まあ、こっちもおそくおきだしているのだから、
「『おめでとう』もなしかよ」なんていえる立場ではない。
おもちだって、自分たちでもちつきをした時期もあったのに、
いまではスーパーでかってきたちいさなおもちだ。
5つお雑煮にいれて、2日前につくった筑前煮と、
夕べののこりの数の子といっしょにたべる。
何年かまえによんだ『普通の家族がいちばん怖い』(岩村暢子)に、
正月の食卓が徹底的にこわされている状況が紹介されていた。
孤食だし、個食だ。アンパンだったりカップ麺だったりを、
それぞれが別々の時間にかってにたべる。
特殊な家をえらんだわけではなく、
ごくあたりまえに生活している「ふつう」の家族なのだそうだ。
そもそもおせち料理は家庭でつくるものではなく、
スーパーなどでかってくるものになっているという。
わたしの美意識では、
元旦の朝食くらいみんながそろって食卓につき、
「あけましておめでとう」をいいあい、
お雑煮とおせち料理をたべたいとおもう。
せっかくのお正月なのに、朝からアンパンやカップ麺はないだろう、
とおどろいていたのに、献立はともかく
たべ方についてはわが家も「ふつう」の家族みたいになってきた。
きのうの朝日新聞に、大村美香氏が
「変化を繰り返す伝統の味」として
おせち料理についての記事をよせている。
大村氏によると、「おせち」が正月の主役になったのは
明治以降というから、そうむかしからのしきたりではない。
その内容についても、「田作り・煮豆・数の子」がなければ、
というのはたんなるおもいこみみたいだ。
ようするに、「おせち」はずっと変化しつづけてきた。
「伝統とは先祖代々受け継いできた不変なものと思ってしまいがちだ。
けれど、日本の食については、変化こそお家芸ではないかと思えてくる」
という視点を大村氏は提供している。
そうだろうとおもう。ずっと以前からつづいていて、
それが正統なスタイルだとおもいこんでいることの起源をさぐれば、
あんがいそうふるいものではないことがおおい。
神前結婚式だって、サラリーマンというライフスタイルだって、
たかだか数十年の歴史しかもたないのだ。
大村氏は「わが家なりのおせちを作ってもいいのでは」
と提案されている。
年末にスーパーへいくと、おせち料理に関連した品は
ふだんよりたかく値段がつけられており、
あしもとをみられているようで気分がわるい。
「わが家のおせち」だったら、やすい材料ですませられるだろう。
中国風に水餃子なんて、あんがいたのしいかもしれない。
変化こそ正統なのだから、なんでもいいのだ。
ほうっておいたら、わが家はますます個食化がすすみそうだ。
来年こそ、とはやくも新年の決意をのべておこう。
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