ヤマザキマリというより、マンガ『テルマエ・ロマエ』の原作者
といったほうがとおりがいいかもしれない。
わたしはこの作品を、ローマ時代の浴場と
いまの日本のお風呂事情をからめるという、
奇抜なアイデアだけでなりたっているときめつけ、
あまり評価していなかったけれど、
この本をよむと、ヤマザキさんが古代ローマ文明と、
ルネサンス時代のイタリアについての、ふかい理解者であることがわかる。
その知識と理解にうらづけされた作品だったから、
『テルマエ・ロマエ』はあんなに人気をあつめたのだ。
「生きる喜びを味わうことに貪欲で、
好奇心がひじょうに強く、失敗もへっちゃら、
活力がむんむんとみなぎっている熱い男たち」
がヤマザキさんはだいすきで、
そんな男たちがおおぜいうまれたのが古代ローマだ。
この本は「日本にもルネサンスを」、というねがいのもとに
ヤマザキさんの理想の男性についてかかれており、
女性論・人間論としてもたのしくよめた。
ヤマザキさんが熱っぽくかたるハドリアヌスとかプリニウス、
ラファエロのひととなりに、だんだんよむほうも感情移入してきて、
ということは正直いってほとんどなく、
わたしがおもしろかったのは、
ヤマサキさんの観察によるイタリア人論であり、
ヤマザキさんと、夫のペッピーノ氏との関係であり、
それらとの比較からみちびきだされる日本人と日本社会の特徴だ。
また、17歳のときに高校を中退して
イタリアへ留学したヤマザキさんもきわめて興味ぶかい観察対象であり、
『テルマエ・ロマエ』が発表されたおかげで、
ヤマザキさんの存在をしることができてほんとうによかった。
ヤマザキさんの夫のペッピーノ氏は、
イタリア人らしく、夫婦がかたりあう時間を大切にし、
しめきりをまえにヤマザキさんがどんなにいそがしくはたらいていても、
食事をふくめて家事のいっさいを手つだわない。
そんな配偶者の態度に、ヤマザキさんが反論しないのが不思議だけど、
論理的にかんがえれば、マンガの連載という
日本社会のしくみがおかしいのであり、
ヤマザキさんとしても妥協しなければならないのだろう。
「人生にお金は必要だけれど、
お金のために自分を犠牲にしてはもったいないと考えている。
夫婦の時間や食事を囲んだ語らいこそが、
人生を楽しむことだと信じてうたがっていません」
イタリア人からみれば、たとえば、わたしと配偶者という一組の夫婦は
どれだけ奇妙なカップルにうつるのだろうか。
日本におけるコミュニケーション障害についてもふれてある。
そもそもイタリアで、コミュニケーション障害などといっても
おそらく理解してもらえないという。
はなしてなんぼ、のひとたちであり、
なぜコミュニケーションできないかを説明しないとゆるしてもらえない。
日本人の対外的なコミュニケーション能力のひくさは、
もちろん政治家をふくめてのことであり、
いまの日韓、日中のひえきった関係は、
ながらく日本的な文脈においてのみ
会話を成立させてきたツケであることに気づく。
彼らのコミュニケーションは、日本人以外に通用しないことが、
このところたてつづけにおきている外交問題であきらかになった。
ヤマザキさんは、だから欧米のスタイルがいちばん、
といっているのではない。
日本のよさもじゅうぶんにみとめたうえで、
ボーダーをこえ、もっと「外」へでる大切さをうったえている。
自分だけ、日本だけをかんがえるのではなく、
「他人の感覚を自分のものにできるひとは単純にかっこいいから」。
女性論もおもしろく、
「女子力」をいかそうとする日本女性の「媚」が
ほかの国の女性にはできないこと、
かたりあえない「お人形さん」的な日本女性では退屈であること、
「成熟の美」がなおざりにされ、
人為的な「美魔女」がもちあげられる不思議さについて
ヤマザキさんはくびをかしげている。
もちろんそれは、そうした女性をもとめる男性側の責任でもある。
イタリアでは「お人形さん」は相手にされないので、存在しない。
わかいころに日本をはなれ、
ひところは日本語をわすれかけていた、といいながら
この本につづられている文章のたくみさにはおどろかされた。
すばらしいリズムによるわかりやすい文章。
でありながら「ヤマザキマリ」という
人間の魅力もじゅうぶんにつたわってきて、
たくさんの「うまい!」というおどろきの線をひきながらよんだ。
ヤマザキさんのマンガだけでなく、
本のつづきもよみたくなるすばらしいデビュー作だ。
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