「東京五輪の不安はセレモニー、その1点のみ」としていた。
わたしもそうおもう。
ソチオリンピックの壮大なオープニングセレモニーをみて頭にうかぶのは、
こういうのが得意なのはたぶん北朝鮮みたいな国で、
日本も、集団でのうごきをうつくしくえんじる素養をもっている。
しかし、いまの時代、ただ画一的にやればいいというものではなく、
のびやかな発想と大胆な個人のうごきがなければ
みる側はたのしめない。
北朝鮮が得意とするような、ただ一糸みだれぬ、というだけでは
かっこうがつかないご時世だ。
日本は北朝鮮にくらべてまだ柔軟性があるし、
歴史のながさと密度では諸外国にまけてはいない。
最新のテクノロジーもふんだんにつかえる。
問題になるのは、どんな演出をするか、という一点につきる。
材料と技術はある。あとは演出なのだ。
ロシアは、ソチオリンピックのオープニングセレモニーで、
ロシアの歴史をこれでもかとみせてきた。
すばらしい演技だったとおもう。
どんな経緯であのストーリーになったかはしらないけれど、
担当責任者を中心に、ものすごくたくさんのひとが
この式のために練習をかさねてきたことは想像がつく。
ロシア人は、こうした集団によるチームワークが必要とする式を、
じょうずに演出できるのだ。
まあ、バレエというお家芸があり、
上から下へという情報の伝達がスムーズなお国柄で、
ソビエト時代にやしなわれた集団的なうごきへのなれもあり、
おおきな舞台をロシアらしく無難にまとめた。
ロシアからイメージするかたさ・つめたさがなく、
人間味をかんじさせる演技だった。
オリンピック全体の大会運営については、
日本ほど安心してまかせられる国はあまりないのではないか。
期日にまにあわせるのが得意だし、
正確な列車のダイヤからもわかるとおり、
安全で秩序だったうけいれ体制をととのえるだろう。
問題は、オープニングセレモニーだ。
これまでのオリンピックの入場式でわかるとおり、
日本人は、はりきってがんばればがんばるほど、
その意図がからまわりしてずっこけてしまう。
オープニングセレモニーだかれといって、
あんまりおおさわぎしなくてもいいのではないか。
日本という国は、日本人よりも外国人にそのよさをみとめられているところがある。
おいしい食事が提供され、交通機関は正確にうごき、
世界的にみればしんじられないくらい安全で、
「おもてなし」の精神がしみこんだ親切な国民性。
政治家の無能さはよくしらえており、
国民は政治が機能しなくてもちゃんとやっていける。
日本人が気づいていない日本のよさは、
へんにがんばってしまわないほうがつたわりやすい。
国家の威信をかけるのではなく、
できるだけ国はくちをはさまない。
日本らしく、かるくてたのしいオープニングセレモニーとなることをねがっている。
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