1階と2階の板の間を棒ぞうきんでふき、
そのあとほうきでゴミをあつめるというもので、
まじめにやると15分ほどかかる。
朝のいそがしいときに15分はもったいないので、
いくつかの省略パターンがいつのまにかできあがり、
いそいでいるときにはほうきではくだけ、
もっとひどいときはそうじをしない、というズルをする日がでてくる。
いちにちくらいそうじをなまけても、
もちろん世の中の大勢に影響はあたえないし、
ズルしたことがそんなにうしろめたいわけでもない。
でも、そうじをするとしないとでは、
なにかがちがってくることに最近わたしは気づいた。
イギリスのうつくしい芝生が、
ただ毎日の水やりを何百年もつづけることによってのみ
つくりだされるのとおなじように、
わが家がわが家であるためには、
わたしの毎朝の規則ただしいそうじが
必要不可欠なのだ。
いちにち、いちにちの変化をみためでかんじることはない。
いちにち、いちにちのつみかさねによってしか、
なしえないことがある、としかいえない。
15分間からだをうごかすことでもたらされる爽快感か、
やるべきことをやった、という安心感か、
そうじをすることで気もちがととのえられてスイッチがはいる。
そのスイッチは、わたしの仕事をスムーズにするだけでなく、
家のたたずまいになにがしかの影響をあたえるようにおもえてきた。
これをたんなる精神的な問題としてかたづけてしまいたくない。
このそうじは、だれからも評価されない、という点も重要だ。
ただわたしがシコシコとからだをうごかしているだけで、
かえってこっちがちいさくなっている面さえある。
家族間のちから関係といってしまってはミもフタもないので、
最近よんだ本にあった「あたえる人があたえられる」
とはこういうことかとおもうようにしている。
自分が自分であるための、みかえりをもとめない、成功者に特徴的な行為だ。
そうじをすることでなにかがかわる。
精神的な整理だとおもいたくないし、
物理的な変化だともいいたくはない。
15分はいろいろかんがえさせられる含蓄のある時間だ。
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