2014年02月17日

『本を読む人のための書体入門』(正木香子)書体にたいしての独特の感覚

『本を読む人のための書体入門』(正木香子・星海社新書)

正木氏は、自分のことを「文字食」とよんでいるという。
文字を味わうひと、という意味なのだそうだ。
日本語にはせっかくたくさんの書体があるのだから、
ある場面でどうしてその書体がつかわれているかを
味わえたほうがたのしい、といわれたら、
たしかにそうおもう。

でもこの本は、書体の味わいかたについてしるよりも、
そのむつかしさにとまどうことがおおかった。
書体の多様性をたのしむ世界のなかで、
ほんのごくわずかなちがいをめでる
正木氏の特殊な感性におどろくしかない。
自分は特別ではない、と正木氏はくりかえしているけれど、
これはそうとう特殊な感覚ではないだろうか。
「入門」とタイトルにはありながら、
そのさきにいけるかというと、
ほんのかぎられたひとだけにしかわからない世界におもえる。

文体や、かかれている内容にあった書体をつかうことで、
効果をたかめるのはわかる。
それにしてもわたしには数種類の書体があればじゅうぶんで、
数千あるという書体のそれぞれをいつくしむなんてとてもできない。
おなじページにいくつもの書体がつかってあると、
目がチカチカしておちつけなくなる。

正木氏が書体に敏感になった理由のひとつに

「日本語の文章をかくときにはローマ字入力をしない、
という自分だけのルールをつくっていた」

ことをあげている。
「理屈ではなく、直感的に選択した」という。

「小さな子供にも老人にも、
当たり前のようにローマ字入力が推奨されるのは残念なことです。
それどころか、今ではどちらでもないタッチパネル式の入力も増えていて、
本来一つひとつの字に備わっている時間の概念は
まったく無視されているように感じます。
誰もが筆をつかっていたころのように
美しい文字をかけなくなるだけでなく、
文字の身体性を感じとる能力も失われる時代になっているようなのです」

いったいなんのことかとおもった。
「本来一つひとつの字に備わっている時間の概念」とか、
「文字の身体性を感じとる能力」といわれてもピンとこない。
よくよんでみると、このわかりにくさは
書体について特殊な能力をもったひとが、
その感覚を表現しようとするときのもどかしさなのだとおもった。

「日本語の『り』には『り』の、『ん』には『ん』の、
『ご』には『ご』だけがもっているスピードがあります。
私はそれを頭のなかでイメージし、
キーとキーを打つ間に、
文字を手でかくときと同じような滞空時間(思考する間)を
仮想的につくっています」

これは、正木さんが特別にもっている感覚だ。
たとえば天才スケーターが、氷のうえをすべるときの感覚や
意識してうごかせない体幹部の筋肉のつかい方を
まったくスピードスケートをしらないひとにつたえようとするときみたいなもので、
ふつうの人間にはなかなか理解できない。
そういう、書体を味わうことにかけての天才が、
入門書をかいてくれたわけだけど、
しょうじきにいって、わたしにはこの本にかかれていることがよく理解できなかった。
正木氏が書体にたいして、ふかいおもいいれをもっていることはわかる。
でも、その味わいについていくら説明されても
おおくの場合が感覚的なものであり、わたしにとってはこのみの問題でしかない。
こんな世界があるのだという、おどろきのほうがつよかった。
天才のかく入門書は一般人むきではない。

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posted by カルピス at 13:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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