「『椎名誠 旅する文学館』シリーズの電子書籍が刊行されました」
というおしらせがのっていた。
椎名さんは電子書籍なんかよむ気はなくて、
電子書籍ばかりがはびこるようになったころには
自分の目はもうヨレヨレだろうから、
そのときには本をよむなんてきっぱりやめて
北か南のまちでしずかにくらす、
みたいなことを何年かまえの本にかいていた。
自分は電子書籍がきらいでも、
自分の本が電子書籍になるのはいいのだろうか。
高野秀行さんも、電子書籍なんてよみたくない、
とかいていたのに、
ご自身の本4冊が電子書籍になるとブログで宣伝してあった。
「海外在住の人、旅行に行く人はもちろん、
写真をカラーで見たい人、新しい写真を見たい人も
ぜひお試しください」
本の電子書籍化を批判するのなら、
自分の本を電子書籍化するのはおかしいようにおもえる。
そこらへんの整合性はどうなっているのだろう。
おふたりともすきな作家なので、説明なり提案なり、
スジをとおしてもらいたいものだ。
『本の雑誌』3月号はよみごたえがあった。
穂村弘氏の「藤圭子の少年マガジン」という記事は、
年末に掃除をしていたら、40年くらいまえのマガジンが
2冊でてきた、というはなしだ。
表紙はいずれも藤圭子だという。
「巨人の星」「あしたのジョー」「アシュラ」「釘師サブやん」
などなつかしい名前がでてくる。
マンガだけでなく、欄外のミニコラムには
「英国婦人のブラジャーの半分は針金入り、
このため英空港では、婦人が通るたびにハイジャック防止の
武器探知装置が反応を示し・・・」などの記事がのっていたそうだ。
「英国」も「ブラジャー」も「飛行機」も、
子どもにははるかにとおい世界だったわけだから、
おさなかった自分はどんなに興奮しただろう、
と穂村氏はふりかえっている。
「定価80円の雑誌の中に、
世界と『ぼく』に革命が起きるかもしれないという
予感が充ちている」
1970年代らしい、未知への期待がつたわってくるいいはなしだ。
ファミコンもケータイもなく、
少年週刊誌の存在は、子どもにとって
いまとはくらべられないくらいおおきかった。
とかきながら、いまの子どもたちがなにをしているのかしらないくせに、
こんなふうにわかったようなことはかけないことに気づく。
せっかく藤圭子が表紙にのったマガシンで、
少年の気もちによりそったはずなのに
おとなのずるさがすぐかおをだす。
それにしても、2冊ともなんで藤圭子だったのだろう。
わたしはマガジンではなく、サンデー派だった。
「男組」「直角」「一球さん」「プロゴルファー猿」と
豪華な連載がたくさんのっていて、
なんていうはなしをしだすときりがない。
むかしばなしがきらいで、のみ会などで
むかしをなつかしんでばかりのひとがいるとうんざりするくせに、
こういった風俗をふりかえるのは、たしかにたのしい。
『武士の家計簿』をかいた磯田道史さんの記事は、
どうやって古文書をよめるようになったかがかいてある。
家には代々ひきつだれてきた古文書があり、
もしそれがよめたら、自分の祖先が殿さまにつかえて
200年にわたりどんな勤務をしてきたかがわかる。
「私は、もうその日から、
学校の勉強はしないことにきめた。
古文書が解読できたら、
また数学だの英語だのは、やることにした。(中略)
みつけた忍者の古文書を解読するのには、
いくらも徹夜できるが、
印税目当てに本を書くなんぞは眠くてできない。(中略)
試験の成績をあげるため、どこかいい大学に入るため、
そんなことで勉強がやれる忍耐をもちあわせている人はいい。(中略)
しかし、自分は、そういうことの埒外で生きてきた」
かっこいい。なんてすっきりした生き方だろう。
そんなふうにして先祖の古文書をよんでみると、
いかに武士のくらしは出費がおおいかがわかったそうだ。
大名行列にくわわるのにも、自分のもちだし分がある。
もし武士の家計簿がみつかり、それを研究したら
いろんなことがわかるのではないかということで、
小説『武士の家計簿』がかかれた。
印税めあてにはかけないというひとの小説を
よんでみたくなった。
スポンサードリンク