2014年03月31日

文章は、かけなくてあたりまえ

文章のかきかたについて、いろいろな本がでているし、
注意すべき点や、大切なコツとかをよく耳(目にも)にする。
それぞれもっともな指摘であるにしても、
まずおさえておいたほうがいいのは
かけなくてあたりまえ、ということだ。

うつくしい文章をめざすわけではなくても、
正確でわかりやすくかくことでさえ、どれだけむつかしいことか。
ながい語句をまえに、とか、句読点のうちかたとか、
文章のセンスとはなんの関係もなく、
ただきまりをまもればいいようなことを説明しても、
おおくのひとはできない。
これは、できないひとの能力がたりないのではなく、
文章をかくことはそれだけむつかしいということだ。
できないことを基準にかんがえる。
文章力の基準は、そうとうひくくみつもってまちがいない。
期待しなければ失望もない、というのとはちがう。
文章力を、だれにもそなわっているはずの能力と、
とらえないほうが実態をあらわしているのだ。
一般的におもわれているほど、文章をかくのはやさしいことではない。
かけないのは、そのひとのせいではなく、かけなくてあたりまえなのだ。

義務教育で英語を勉強しても、
ほとんどのひとはつかえるようにならない。
はしりはばとびや100メートル走にしても、
あるレベル以上になると、だれにでもこえられる記録ではない。
文章力もそれとおなじだ。
できないのがふつうだと おもったほうがいい。
文章力だけが、なぜだれにでも身につくちからだと しんじられているのだろう。
日常的に日本語をはなしているからといって、
それを文章であらわすのは、またべつの能力であり、
つかいこなすためには、かなりの時間をかける必要がある。
かけなくてあたりまえであり、それを前提に
わかりやすく 正確につたわるかきかたを かんがえる。

「今まで文書を書くことが苦手だった人にも、
ワープロの普及で文書を作成する機会が増えました。
しかし、カナ漢字変換によって難しい漢字が文面に増えてきて
読みづらさを感じることがあります。
漢字は一目見て多くの概念を伝えることができる有用な文字ですが、
文中に漢字が多すぎるものは圧迫感があります。
そのため、新聞などでは長年の実践の中で記載方法を整理してきています。
私たちも、その成果に学びたいものです」

これは、あるサイトにのっていた「文章の書き方」だ。
なにかの冗談かとおもった。
「成果に学びたい」といいながら
じゅうぶんに圧迫感のある漢字のおおさだ。

文章についておしえる側になると、
かけないひとへのいらだちからか、
ちからがはいってすべってしまう例がおおい。
わかりやすく説明しようとして、
そこなし沼にとらわれたように 身うごきがつかなくなる。
うえから目線のかきかたにもなりやすいようだ。
ものすごくたくさんの英語についての本があるように、
ものすごくたくさんの文章についての本がある。
両方とも、決定版はうまれていない。

さらにいえば、文章だけでなく、すべてにおいて
「できなくてあたりまえ」とおもっていたほうが、
謙虚に、こころしずかに生きることができる。
才能なんて、ないのがあたりまえであり、
ないことを基準にかんがえれば、あることが とてもありがたくなる。
お金も時間も、ないのがあたりまえであり、あるのがありがたい。

まいにちブログをかいていると、
「あれ、これはまえにかいたことかも」ということがよくある。
そんなときには「おぼえていなくてあたりまえ」のひとことにすくわれる。
「あたりまえ」にすりかえてしまえば、
記憶力のわるさになやむこともない。
すこしぐらいよくにた内容についてかいたとしても、
それがどうしたというのだ。

と、これはただのひらきなおりであり、
こうなってしまうと とりあつかいのむつかしい
やっかいな人間になってしまう。
謙虚さと傲慢さは、紙一重だ。

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posted by カルピス at 07:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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