古本屋さんで『どくとるマンボウ航海記』を目にする。
なつかしさから、つい手にとってみる。
中公文庫から1978年に出版された本だ。
わたしが中学生のころによんだのとおなじ版で、値段は240円。
いまは版元が新潮文庫にかわり、452円になっている。
40年もまえの本なので、活字がかなりちいさくて、
いまのわたしには老眼鏡をかけても
ながくよむのはつらい。
わたしは『どくとるマンボウ青春期』から
北杜夫の世界にはいった。
北杜夫というより、おとなの本の世界、ともいえる。
それまでとても自分にはわからないだろうと
敬遠していたおとなの本を、
おそるおそる手にするようになったのは、
北杜夫が敷居をひくくしてくれたおかげだ。
小学6年生のときに『青春記』をよみ、
しばらく北杜夫の本ばかりをあさっていた。
この『どくとるマンボウ航海記』も、そうしたときによんだ一冊だ。
それからは、北杜夫の本にでてくる作家、吉行淳之介や山口瞳へと手をのばし、
すきになった作家から芋づる式に、というよみかたになる。
そのすべてが北杜夫からはじまったのだから、
わたしにとって特別な作家だ。
『どくとるマンボウ航海記』は、探検をするわけでも、
自分でヨットをあやつるのでもなく、
「航海記」という名にひかれてよんだわたしとしては
期待していたような本ではなかった。
むつかしい内容ではないとはいえ、寄港地での酒場のはなしなど、
子どもにはピンとこないこともおおかったのだろう。
『航海記』は、いまではよくみかける旅行記のジャンルだけど、
1958年は、まだ自由に外国旅行のできる時代ではなかった。
そもそも北杜夫がのった船は、マグロの調査船であり、
その船医という身分なので、だれにでもまねができる方法ではない
(本書にならって関係ないことをかくと、このころからマグロ漁はすでに
イタリアや南米を基地として、世界的に展開していたことがわかる)。
「私はこの本の中で、大切なこと、カンジンなことはすべて省略し、
くらだらぬこと、取るに足らぬこと、書いても書かなくても変わりはないが
書かない方がいくらかマシなことだけを書くことにした」(あとがき)
は、けしておおげさではない。
「航海記」とはいいながら、航海とは関係のない、
どうでもいいようなことを、
あっちにいって、こっちにとんでと
どこまでもよこみちにそれる。
本はまじめなもの、まじめでなければ、というかたぐるしさが、
この本にはすこしもみられない。
めったにできない体験として、外国の町をおとずれているのだから、
ついもっともらしい所見をのべたくなるところなのに、
日本との比較や分析にはまったくふれられていない。
外国にびびることなく、たとえヨーロッパであっても、
自由に、ふてぶてしくみてまわれるひとは
この当時、そういなかったのではないか。
よんでなにかのやくにたつ本ではないけれど、
ページのはしばしからかんじる自由な雰囲気がすきだ。
日本人がはじめてたのしんだ世界旅行であり、
その旅行記として、たかく評価している。
もちろん、おとなの本の世界への、おもいでの一冊としても。
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