そういう目でみると、世界はトホホ界の住人と、
それ以外の世界にすむひとたちにわかれていることに気づいた。
いきなりそんなことをいわれても
なんのことかわからないだろうから、具体的なイメージとしては
「ののちゃん」のおにいさんである「のぼるくん」をおもいだしてもらえば、
トホホ的な世界の雰囲気をつかんでもらえるのではないか。
なにかの才能がないことははっきりしている。
でも、人生をすててかかっているわけではなく、
なんだかんだと(たとえば野球部の活動)手をだすけれど、
その努力がむくわれることはまずない。
おいしい部分は、調子のいいタイプの「ののちゃん」にぜんぶもっていかれる。
鷹の爪の総統も、典型的なトホホのひとだ。
世界征服をかかげ、なかまたちといろいろうごきまわっているものの、
おそらく本人も自分たちのとりくみが成功するなんておもっていない。
かといって、すべてをなげだすのは、根がまじめな人間であるだけに、できない。
トホホの世界にすむひとは、だいたいあんなかんじだ。
努力がきらいなわけではないが、本質をはずしているので、
なかなか核心にせまれない。どうしてもツボをはずしてしまう。
あまり向上心はないけれど、まったくゼロというわけでもない。
ただそれは、成功にむけてというよりは、
なにかをかんちがいしてのことがおおく、
最終的に身につくことはない。
トホホのひとは、おおむね人畜無害で、
成功した人間をねたむこともない。
だいたいにおいて自分の世界で機嫌よくくらしている。
成功は、自分にとって関係ないことで、
自分に陽のひかりなんて、ずっとあたらないことをしっているからあせりはない。
わたしたちは、自分がどういう星のもとに生まれてきたのかを、
わりとはやい時期にさとる(わたしの場合は小学校4年生ごろ)。
自分がおこなったよい行為が正統に評価されることはないし、
わるいことをすればかならずみつけられる。
なにかをえらぶときにも、わるいクジはかならず自分がひくことになっている。
おさないころにそんなことがつづくと、
だんだんと運のわるさになれ、いいことなんか自分におこらないと
はじめから達観するようになる。
トホホは、運命でもあるけれど、
それに気づいてからは、自分でえらんだ道でもあり、
だんだんとその世界になじんでいく。
だいぶまえに話題になった「だめ連」とトホホのひとは
すこしかさなる部分もあるけど、
トホホは自分たちのことをあそこまでつよく肯定してはいない。
トホホの人生をあゆんでいるという意識があるにせよ、
にたものどうしでグループをつくるのではなく、
集団のなかにポツリ、ポツリとばらまかれて生息することがおおい。
トホホは連帯しない。ただあるだけだ。
わたしとしては、だれにでもトホホの要素があるなどといって、
問題をあいまいにしたくない。
要素があることと、トホホのひととして生きるのは
まったくべつなことだ。
トホホに生きる人間は、トホホなりのほこりみたいなものをもっていて、
いまさらできるタイプをめざしたりしない。
これはこれで、ひつとの完結した生き方であり、
このごろは、トホホはトホホでそうわるくないとおもえるようになってきた。
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