2014年04月12日

『愛、アムール』わたしに配偶者介護が どこまでつとまるだろう

『愛、アムール』(ミヒャエル=ハネケ監督・2012年・フランス)

オープニングで、カンヌ映画祭のパルム・ドール作品ということをしり、
心配になる。
なにしろ、あの『ブンミおじさん』に金をあたえたカンヌなのだ。
超たいくつ作品だったらどうしようか。
でも、ふつうにみれるリアリズムの作品で、
いったいなにがいいたいのかわからない 神秘的な時間にはらなかった。

とはいえ、ほんとうはなにをいいたかったのだろう。
パルム・ドールというぐらいだからふかい意味があったのだろうけど、
わたしには障害者介護、そして老老介護の映画としかみれなかった。

歳おいた音楽家であるジョルジュ(夫)とアンヌ(妻)夫妻は
子どもたちがすでに家をはなれ、いまはふたりでくらしている。
コンサートからもどって夕食をとっていたとき、
アンヌのようすがおかしくなる。
医者にみてもらうと手術をすすめられ、
リスクはひくいといわれていたのに右半身にマヒがのこり、
車いすにのってアンヌは家にもどってきた。
マヒはおもく、ほとんどすべての動作にジョルジュの手だすけが必要だ。
ジョルジュもすでに高齢で、足腰がたしかなわけではない。
ベッドやいすにうつるときの補助も、
ジョルジュの腰までどうにかなりそうで、みていてあぶなっかしい。
完全に夫に依存しなくては生活できなくなってしまった自分がくやしくて、
アンヌはときどきいらだちをみせる。

そのうちに、2ど目の発作がおこり、マヒがいっきょにすすんでしまった。
はなすことも不自由になり、痴呆の症状もでてくる。
食事もとろみをつけたゼリーを、スプーンで口もとまではこばなければ
自分ではたべれない。
やがて、「いたいー」という うったえしか 声にだせなくなっていく。

ヘルパーさんにたのめばいいのに、というのは日本人の発想で、
フランスにはそういう制度がないみたいだ。
看護婦さんが週に3回と、お医者さんが2週間に1回、と
ジョルジュがむすめにはなしていた。
シャワーや髪のセットは、べつにお金をはらって
ひとをやとわなくてはならない。
むすめがときどき心配して家によってくれるけど、
それで介護の負担がかるくなるわけではない。
心配してくれても、ジョルジュがしなければならないことにかわりはない。

マヒをもつ病人を、歳おいた配偶者ひとりで世話をすることが、
いかにたいへんかがつたわってくる。
なにしろトイレにいくのにも、ベッドにうつるのにも、
ジョルジュが手をかさなければ、アンヌひとりではできないのだ。
わたしとしては、おなじような介護を配偶者にできるだろうか、という
視点でずっとみていた。
また、自分にマヒがのこり、配偶者にみてもらわなければならない状況だって、
いくらでもおこりえる。あすはわが身だ。
ジョルジュは、ときにはいらつきをみせることがあっても、
客観的にいって、とてもよくアンヌにつきそっている。
しかし、アンヌの病状がすすみ、だんだんとできないことがふえ、
人格までかわってしまうとき、
ジョルジュはだれにもたよろうとせずに、
すべてをひとりでかかえこんでしまった。

舞台はフランスだけど、日本でもおおくの歳おいた夫婦が
おなじような状況におかれているとおもう。
身うちが、ひとりで介護するのは、
おたがいにどうしても無理がでてくる。
だれかがあいだにはいるしくみがなければ、
とてもわたしにはできそうにない。

なかなかおもたいものをこころにのこす作品であり、
身につまされてみていたけれど、収穫もあった。

「三つそろってポンっ」については、
『ポルトガル、ここに誕生す』のときにかいたとおりだ。
もういちど簡単に紹介すると、
自分だけのルールで3つなにかがそろったときに
「おおーっ」とひとりで悦にいることができる。
きょもまた3つ目がそろった。(以下、ネタバレ)
パートナーにマクラをおしつけて窒息死させる映画、というお題で、
『ベティ・ブルー』・『ミリオンダラー・ベイビー』
そしてこの『愛、アムール』だ。
そういう心境になるのは、こうした状況の場合さけがたいことで、
わりと普遍的な決着のつけかたなのだろう。
わたしもやってしまいそうでこわくなるけど、
日本のマクラはさいわいそういう目的には
あまりつかいがってがよくなさそうだ。

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posted by カルピス at 17:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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