パソコンでつけている日記をひらいて検索にかけた。
5年から10年まえの自分がどんな時間をすごしていたかよくわかる。
なつかしさから、むかしの日記をよみかえすことになった。
日記には、ほとんど記憶にないくらい勤勉なわたしがいる。
マッサージへいったおなじ日に、
かつての自分はいろんなうごきをしている。
子どもがまだちいさかったせいもあり、
自分の都合だけでは自由時間を確保できないので、
うごけるときにできるだけ用事をすませていたのだろう。
マッサージにいって、映画にいって、図書館へ、とか、
本屋さんにいって散髪へいって、夕ごはんにギョーザをつくるとか、
すごく元気にうごきまわっている。
ジョギングをしたおなじ日の夕方にプールでおよいでいたりもする。
自分の日記であることをしらなければ、
かいたひとのげんきさを本心からうらやましがるところだ。
いまは、まったくそうではない。
このまえは、マッサージにいく日に有給をとった。
マッサージをうけたあとに仕事をしたくなかったからだ。
マッサージのあとにはたらくなんて、いまのわたしはぜったいにかんがえない。
いまは、いちにちにひとつのことしかできなくなっているのか。
これを老化というのか。
蔵前仁一さんの旅行本に、いちにちにひとつのことをして
満足している旅行者がでてくる。
そのひとが特別にグータラな旅行者というわけではなく、
バックパッカーのおおくがおなじような体験をもっているはずだ。
それだけ非効率にしかうごけない土地がおおく、
旅行とは、そういうものだったのだ。
郵便局で手紙をだす。駅で切符をかう。銀行で両替する。
いちにちに、その用事をひとつすますことができれば、
もうその日は充実したすごし方をしたようにおもえてしまう。
なにもせずに宿でゴロゴロしてるのもいいけど、
あんまりそんな日がつづくと、さすがにダメな人間になったような気がしてくる。
精神的に健康な日常をすごすには、
いちにちにすませた用事が ゼロではよくないのだ。
ゼロはいくらつみあげてもゼロだけど、
たったひとつのことでも、「1」は確実に実績となってのこっていく。
着実にひとつの用事をすませたことが充実感につながっていく。
せっけんをかいにいく程度の、ささやかな用事でも
ぶじにすすめばおめでたいのだ。
このごろのわたしは、旅行者の日常のように、
いちにちにひとつはなんとかすませよう、という
たいへんひくい目標の日がおおい
(仕事以外のはなしです、念のため)。
なにしろ午後から仕事にいけばいいので、
時間におわれることがすくなくなった。
ひとつでも前進すれば、あまりにも怠惰だ、とはおもわないで、
あんがい機嫌よく いちにちのおわりをむかえられる。
ゼロでないのがすくいで、それだけがとりえだ。
タスクとか時間の管理などは、興味があるもののまだふみきれない。
なくてもさしさわりがないのだから、優雅な生活なのだろう。
やっと自分にあったはたらき方を 手にいれたのかもしれない。
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