地区の自治会総会に出席する。
よくいわれるように、職場と家庭だけを大切にするのではなく、
すんでいる地域への貢献をわすれてはならないからだ。
などと殊勝なことをすこしはおもったけれど、
どうしても義務感のほうがさきにたち、
なんとか退屈せずにすごそうと
カバンにキンドル・ペーパーホワイトをしのばせる。
本をよむのは挑発的な行為になりかねないし、
キンドルがおおくの会でヒマつぶしに有効なことは、
研修会で体験ずみだ。
総会は、司会者をきめ、前年度の会計報告や事業報告、
それに新旧役員の紹介と 粛々とすすんでいく。
わたしは資料のうえにキンドルをおいて
『こころ』をよみはじめた。
この作品は、キンドルをかったときに
ためしにと青空文庫からダウンロードしたものだ。
こんな機会でもなければ『こころ』をよむことはないだろうと、
この超有名な古典をえらぶ。
むかしふうのことばづかいが妙に新鮮で、内容もとくにむつかしくはない。
ものがたりとしてじゅうぶんおもしろくよめる。
おもっていたより読書がはかどり、
会がおわるまでに雑司ヶ谷への墓まいりまですすんだ。
古典だからといって敬遠してきたけど、
とりついてみればおもしろいものだ。
ただ、そのさきを一気によもうという熱意まではなく、
どうしようかといったんよむのをとめていたら、
朝日新聞で『こころ』の再連載がはじまったことをしった。
1914年に連載された作品なので、
ことしがちょうど100周年記念なのだそうだ。
なんだかこのごろ漱石の名前をよく目にするとおもっていたら、
わたしが『こころ』をよみはじめたのとおなじ日から
連載がはじまっていたのだった。
偶然におどろきながら、妙なことになったともおもった。
せっかくよみはじめた『こころ』なのに、
新聞での連載がキンドルでの読書のさきをいかれるのはおもしろくない。
こんな機会は100年にいちどしかないので、
そのままキンドルでの『こころ』をよみすすめることにする。
キンドルがおしえてくれる「よみおえるまでの時間」によると、
5時間ちょっとかかる作品だ。
総会のあとは、毎晩ねるまえのお酒とともによみすすめ、
ちょうど1週間後に終了する。
これまではみじかいビジネス書ばかりだったので、
キンドルではじめて体験するふつうの読書となった。
これくらい超有名な作品になると、
いまさらわたしがもっともらしいことをかくわけにはいかない。
雑感としては、むかしのゆったりとしたくらしぶりが印象にのこった。
冒頭の、鎌倉での避暑からして、何週間もすごしているようにみえる。
そして、東京にかえってから「私」が先生をたずねるのにもまた
ずいぶんさきのこととなる。
くらしていくいえで、時間のながれが圧倒的にゆっくりだ。
いちにちやふつかでことをいそぐのではなく、
なにかが頭にひっかかると、それについてかんがえるうちに
あっという間になんにちも日がすぎていく。
そもそも「先生」はなにも仕事をしていないのに、
奥さんがいて、お手つだいさんもいて、という家にすむ。
そういう人間の存在を、平気でゆるしてくれる世相を
おもしろいとおもった。
キンドルでよんでいながらこんなことをいうのはなんだけど、
IT断食はむりとしても、IT禁欲ぐらいはしたほうがいいのでは、
という気になった。
わたしはネットにそんなに依存していないつもりでも、
じっさいはあわただしく、しょっちゅうネット情報にふれようとしていることを、
とくに『こころ』なんかをよんでいると意識せざるをえない。
内面はどうあれ、外見は「先生」のようなくらしぶりを わたしは理想とする。
「先生」はいったいなにをおもってくらしていたのか
(それが本のなかに、ずっとかいてあるとはいえ)。
さいわい新聞の連載よりさきによみおえたので、
これからは余裕をもって新聞での『こころ』をよみかえすことになる。
100周年の企画として連載されたのとおなじ日に
おなじ作品をキンドルでよみはじめるという偶然は
これからもっと漱石をよめ、ということなのだろうか。
『こころ』があじあわせてくれたのは、
ネット社会において、むかしのくらしぶりにふれるここちよさだ。
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