2014年04月27日

「島根のこんなところに外国人」企画は成立するか

「こんなところに日本人」みたいな番組をよくみかける。
世界じゅうの、まさかこんなところで、という場所にも日本人がいて、
そういうひとをリポーターがたずねる、という企画だ。
意外性がおもしろがられるのだろう。

わたしの体験でも、その国の首都をはなれ、
はるばる田舎をまわっているつもりなのに、
そんなところでも日本人にあっておどろくことがある。
旅行者ではなく、いったいなにをしているのかわからないひとがおおい。
でもまあ客観的にみれば、わたしにとって「はるばる」なだけで、
その地域でくらすひとにとっては
ごくあたりまえの日常生活にすぎないわけだから、
「こんなところで」というのはわたしのかってな感慨だ。
意外な場所で日本人にであったと、
おどろくわたしの感覚のほうがずれているのだろう。

「こんなところに日本人」にあやかって
「島根のこんなところに外国人」はどうだろうか。
文字どおり、島根のこんな辺境にも外国人がいる、という企画だ。
隠岐諸島の島のひとつ、知夫島へ「はるばる」でかけ、
雑貨屋さんで外国人をみかけたときは、
「こんなところで」とさすがにおもった。
行政か教育関係の協力員として、島にこられたのではないかと想像する。
そのひとにとっても、日本にいくとはいったけど、
まさかこんなへんぴなところへつれていかれるとは おもわなかっただろう。
島根県民のわたしがそうおもってしまうぐらい、かなりの辺境なのだ。
「島根県の外国人住民登録人口」(2013年)をみると、
知夫島にも2人の外国人がすんでいる。
どんなところにも日本人がいるように、
どんなところ、たとえ島根でも、外国人がいる。

市内をはしるバスにのっていたとき、
コロンビアからきた女性とはなしたことがある。
そのひとは、バスのルートを確認しようと
じょうずな日本語でわたしにはなしかけてきた。
なにかの勉強(内容はわすれた)でこの町にきている、とおしえてくれる。
いろんなひとが、いろんな理由で 自分の生まれた国、すんでいる町をはなれ、
わざわざ島根にきてくれているのだ。
さすがに島根だけあって「ご縁があった」と出雲大社に感謝するよりも、
いまはそういう時代だとおもったほうがいいだろう。
そして、ほんとうは「いま」にかぎらず、人類の歴史とは
ずっとそうだったのかもしれない。

「島根のこんなところに外国人」とおどろいてみせる企画は、
全地球的な意識で人類が共存しようという時代に
いささかまとをはずしているかもしれない。
なにしろ島根は そのむかし小泉八雲がこのんだ由緒ある土地であるし、
さらにいえば、小泉八雲のように日本各地でくらした外国人は
明治というむかしからたくさんいたのだ。
どこにだれがくらしていても、外国人だからといっておどろく時代ではない。
島根では、よくあることなのだ。

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posted by カルピス at 10:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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