「外国でプレーする日本人選手に言葉はどこまで必要か」という記事がのった。
「サッカーに言葉はいらない」といわれることもあり、
いったい日本人選手にとって、外国でプレーするときにどの程度の言語力が必要なのだろう。
記事をよむと、なんにんかの選手がとりあげられていて、
ことばができたからどうだった、
できなかったからどうだったという例が紹介されている。
ただ、こういうことはそのチームと選手の関係など、
よほどふかく取材しなければ実情はみえてこないだろう。
記事は、状況をさらっと紹介しただけにとどまり、
とくに有意義な分析がしてあるわけではない。
なによりも、ことばができなければチームでやっていけないのは
あたりまえのことなのだ。
監督やチームメイトのいうことを理解できなければ
練習や試合に影響があるのだから、
もちろんその国のことばが理解できたほうがいいにきまっている。
そうでなくても通用するのは、マラドーナやメッシのように特別な選手だけで、
日本人選手はだれもこの枠にはあてはまらない。
外国で成功しなかった日本人選手のおおくは、
コミュニケーションに問題をかかえていたのではないか。
ことばの壁をかんがえずに、あるいはないものとして
外国へでかけようとするほうが無理なのだ。
本田選手がACミランにはいったときは、
通訳をいれず、英語で記者会見をおこなった。
中学生レベルの英語などと、ひどいこともいわれていたけど、
おおくの報道陣をまえに、ひとりでやりとりした気もちのつよさを
わたしはすばらしいとおもう。
本田選手があの場に通訳をまじえずいどんだのは、
質問にこたえる内容だけがだいじだったのでなく、
そうやって自分ひとりですべてにむきあうという、
つよいメッセージをはっするためだった。
このときは英語をつかっての対応だったけど、
きっと本田選手はイタリア語を勉強し、
すくなくともサッカーをするのに必要なレベルをめざすことだろう。
そういう気もちがないのに外国のチームでプレーしようというのは、
つまりいつまでも通訳にたよろうとするのは、
よほど自分の技術に自信があるひとにおもえる。
選手にはキャラクターのちがいがあり、
まわりととけこみやすいひとと、
自分をわかってもらうために積極的にはなしていくひとなど、
いろいろなタイプがあるだろう。
あまり外国語ができなくても、要領よく
相手のいっていることを理解するひともいるかもしれない。
そいうことすべてをふくめてのコミュニケーション力であり、
サッカーに支障のないレベルで
監督やチームメイトとやりとりするちからがもとめられる。
「外国でプレーする日本人選手に言葉はどこまで必要か」という企画が
わたしには「いまさら」なものにおもえる。
こうした記事がのる事態が、日本人のコミュニケーションべたをあらわしているのだろう。
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