2014年04月30日

外国の町を、じっさいよりちいさくイメージする心理

外国の町のなまえをきいて、なにがしかイメージする。
わたしの場合、10分の1くらいに
規模をちいさくした場所をおもいうかべることがおおい。
じっさいにその町をおとずれると、おもったよりおおきいので
なんだかがっかりしてしまう、というのがいつものパターンだ。
たとえば今朝の新聞に、インドネシアのメダンがのっていた。
まだいったことがないけど、人口3万人くらいの田舎町を想像し、
そこの食堂で土地の料理をたべている自分をおもいえがく。
でもきっと、わたしのすむ町より、はるかにおおきな町なのだろう。

ついたら、こんなはずじゃあなかった、ということはよくある。
風光明媚な田舎町、なんてガイドブックで説明してあっても、
じっさいにおとずれると、わたしがすんでいる町よりはるかにおおきく、
ゆったりした気もちにはとてもなれない、なんて場合だ。
現実とイメージのズレは、いったいなにが原因なのか。
ひとは、いったいなにをもとにイメージするのだろうか。
わたしは、無意識のうちにちいさな町をのぞんでいるみたいだ。

ちいさな町とおもいこんでしまうのは、
ちいさければそれだけくみしやすい、
ちいさくあってほしい、という心理だろう。
田舎そだちのわたしは、はじめから大都会をおもいえがくと、
そのおおきさにビビってしまうので、
脳がちいさくおきかえるという処理をしてくれるのかもしれない。

香港へいったときは、あんまり近代的な町なのにおどろいてしまった。
わたしはジャッキー=チェンの映画にでてくる
ふるい中国の町をイメージしていたからだ。
なんでまたそんなかんちがいをしたのかわからないけど、
もしかしたら、脳がわたしがビビらないように気をつかってくれたのかもしれない。

わたしがはじめておとずれた外国の町はバンコクで、
そこがあまりにもおおきかったので、
わるい記憶としてのこったのかもしれない。
そのあとにいったチェンマイは、
よく京都みたいなおちついた町、といわれるけど、
わたしがいったときは もうじゅうぶんおおきな地方都市だった。
「京都」からしずけさを想像し、しずかな町はちいさいと連想したのに、
おもっていた10倍ぐらいおおきかった。

脳がおきかえてくれるおかげか、
もしわたしがニューヨークへいくことになっても、
あんまり心配しないような気がする。
ベルリンだろうがローマだろうが、
まだいったことのない町も、10分の1にちいさくみつもれたら
あんまり心配しないですむ。
想像力がいちばんこわいのだそうで、
どうせちいさな町なんだ、とおもいこめたら心配せずにすむ。
こういうのは、心配のうらがえしで、
おおきな町にどれだけ苦手意識をもっているか、ということなのだろう。

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posted by カルピス at 20:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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