2014年05月06日

梅棹忠夫さんと小倉千加子さんの対談「若い女性のあかるい絶望」をよみかえす

梅棹忠夫さんと小倉千加子さんの対談をよむ。
『月刊みんぱく』という雑誌に「館長対談」という連載があった。
梅棹さんがホストとしてゲストをまねき、
いろんな業界のはなしをきいていく。
それをまとめたものとして、何冊もの対談集が出版されている。
梅棹さんと小倉さんの対談は、
『世相観察・女と男の最前線』(講談社)という
対談集におさめられたもののひとつで、
「若い女性のあかるい絶望」というタイトルがつけられている。
対談は1989年におこなわれた。

なんでいまさらこの本をとりあげたかというと、
25年もまえの対談なのに、えんぴつで線をひきっぱなしになったからだ
(なんどもよんでいるはずなのに)。
そんなむかしからすでに、短大生たちは人生に絶望していた。
世のなかは、それからどのようにかわっただろう。
本書では、男社会の末期にちかづいてきた、とはなされているけど、
わたしには、おなじような形がいまもつづいているような気がする。
もう男社会はおわったのだろうか。みかけはいまでも男社会をよそおいながら、
なにかが決定的にかわったのだろうか。

ほかのおおくの対談は、梅棹さんがホストではありながら、
はなしがすすむうちにだんだん梅棹さんが主導権をにぎっていく印象がある。
しかし、この小倉千加子さんとの対談は、はじめからおわりまで、
小倉さんのするどいきりくちに梅棹さんが圧倒される
めずらしいかたちとなった。
梅棹さんは、小倉さんというすぐれた解説者をえて、
なじみのない世界でおきている
おおきな変化をたのしんでいるようにみえる。
このとき小倉さんは37歳。
大阪の短大で女子大生におしえている時期だ。
1989年は『松田聖子論』が出版された年で、
松田聖子と山口百恵との比較が新鮮だった。
『結婚の条件』はまだ出版されていない。

小倉さんは、短大生にたいしてすごくやさしい。
もっとがんばれと しりをたたくことはなく、
この男社会で生きていかなければならない彼女たちに
ふかい共感をよせている。

小倉 短大生で、いま彼氏とつきあっている子が半分以上いるんですけど、
   もっといい男性があらわれたら、
   いつでもいまの彼とわかれたいとおもっている。
   いまの彼と結婚する気はないんです。
   あくまでもおつきあい。(中略)
   ところが、彼のほうは、もう一途に恋愛だとおもっているんです(笑)。
梅棹 男というものはあわれなものやなあ。あほうなものやなあ(笑)。  
   現代は男社会ですけど、男の世相史的たちおくれというのはひどいですね。
小倉 15年ぐらいおくれているんじゃないですか、女の子より。(中略)
   男女の精神年齢に系統発生的に15歳のひらきがあるわけでしょう。
   そのギャップをのりこえておつきあいしているんですから、
   女の子はたいへんなんです。(笑)

梅棹さんは「おもろいことやなあ」とあいづちをうつことがおおく、
対談の主導権は小倉さんがにぎっている。梅棹さんは、完全にききやくだ。

それでも、美少年趣味にはしる女性、という話題では、
小倉さんが少年隊や田原俊彦を例にあげると、
梅棹さんも「なるほど。光GENJIなんかもそうですね」
とちゃんとついていっているところはさすがだ。
いまでいうと、AKB48のメンバーをしっているかんじだろうか。
社会学をやるからには、最先端の風俗にも
好奇心をもちつづけることが不可欠なのだ。

小倉 関西の町人社会をささえていたのは、遊びごころでしょう。
   じつは、フェミニズムもいま、西高東低といわれているんです。
   関西は遊びごころのフェミニズム、関東はあいかわらず運動です。
梅棹 なにをやるにも遊びごころがいちばんだいじです。
小倉 遊びごころの前提は、やっぱりペシミズムだとおもうんです。
梅棹 それはそうです。すべてに絶望しているからこそ、
   遊びごころがでてくるんです。

「世のなかの上澄みのきれいなところしか見たくない。
下のドロドロしたところへは、どっていみち
中年になったらはいっていかなきゃいけない。
だったら、いまはせめてたのしくすごしたい。
まるで、焼けたトタン屋根のうえでカンカン踊りをやっているような(笑)、
そういう死にものぐるいの享楽です。
それは、みんなわかってやっていますよ」(小倉)

彼女たちは、わかいころから世のなかに絶望し、
自分たちにあかるい未来はないとしっている。

梅棹さんは
「わたしは若いころから、わたしの生きかたを
『あかるいペシミズム』といっているんです。
きわめてペシミスティックな見かたをしていますけれども、
いつでもたいへんあかるい」
と共感をよせている。

「若い女性のあかるい絶望」という対談のタイトルは、
この「あかるいペシミズム」のことをいっているのだろう。

梅棹さんの著書『わたしの生きがい論』は、
生きがいなんかもたないほうがいいんだ、
という内容がかたられている。
あかるい未来はないけれど、それまではたのしく生きていこうと、
当時の短大生は『わたしの生きがい論』を実践していたのだ。

この対談がおこなわれてから25年がすぎ、世相はどううつったか。
わたしは変化に気づくのがおそく、
もうことが決定的になってから「そういえば」というところがある。
この「あかるい絶望」についても変化に鈍感で、
問題がさらにふかまったようにしかみえない。

「あかるいペシミズムでいくしかありませんね」

という小倉さんのことばで対談はむすばれている。
25年たっても、それはかわらなかったのではないか。

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posted by カルピス at 20:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 梅棹忠夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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