歌詞集ではなく、「忌野清志郎詩集」となっている。
そうか、清志郎のうたは、「詩」だったのか。
解説は角田光代さんで、
「大学生のとき、私はくり返しくり返し、この本を開いて、読んだ。
最初は音がついてくる。メロディと、忌野清志郎のあの独特の声を、
言葉が連れてくる。(中略)
それが、あるときふと消える。くり返し読んでいると、消える瞬間がある」
「忌野清志郎は音楽の人でもあったが、言葉の人でもあった」
というのが角田さんの発見だ。
わたしには、「言葉の人」としての清志郎を理解できるだろうか。
この詩集におさめられている64作品には、未発表の曲もふくまれている。
ためしにそれらの詩をよんでみる。
音をともなわない、独立した詩としてよさがわかるかというと、
正直なところわたしにはピンとこなかった。
わたしにとって清志郎の曲は、あくまでもメロディがかさなったものだ。
オリジナルは、1983年に出版された詩集なので、
「RCサクセション」の初期の曲ばかりあつめられている。
わたしはこの詩集におさめられている曲ばかりをきいてきた。
いまも車にのせているのは『OK』『Beat Pops』『PLEASE』で、
それなのに、本のページをめくっても、ぜんぜん胸にせまってこない。
わたしには、言葉のひととしては清志郎にしたしめないみたいだ。
このまえみた番組「ラストデイズ『忌野清志郎×太田光』」では、
太田さんが清志郎のかよっていた日野高校をおとずれている。
「トランジスタ・ラジオ」でうたわれた学校の屋上にあがる。
ここで清志郎はたばこをすい、ラジオに耳をかたむけていた、
かどうかはわからないけど、
仲間とつるんで授業をさぼっていたのではないそうだ。
いつもひとりだった、というのが
わたしのイメージしていた清志郎とだいぶちがう。
シャイな清志郎の胸のうちがこの詩集にはつまっているはずなのに、
ファンを自称しているわたしにその魅力がわからなかったのは
すこしさみしかった。
(本書は、1983年に彌生書房からされたものが、
209年に角川学芸出版から復刊され、
今年それが文庫となった)
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