2014年05月17日

「やる気」のなさがメリットになる場合もある

「やる気さえあればなんとかなる」、とよくいわれる。
ちがういいかたをすると、やる気がなければどうしようもない、ということだ。
なにかをはじめるときに、
それにたいしてあまり知識をもっていなくても、
「やる気」があればなんとかのりきれる。
まわりの協力や運も大切とはいえ、
なによりもまずそのひとに「やる気」があるかどうか。
かなり特殊な場合でないかぎり、
事業経営については「やる気」がなければ、はなしにならない。

でも、そこに「いる」というだけで意味のあるひともたしかにいて、
そういうひとはあまり「やる気」をもってないほうがうまくいくような気がする。
糸井重里さんがすこしまえの「今日のダーリン」にかかれていたおじさんは
そんなひとだ。

「娘が、学校に通っているころに思ったことがあります。
 校庭に、小さい家を建ててね、
 そこに普通のおじさんが住んでたらいいのに、と。
 学校でおもしろくないことがあったときとか、
 なんか家のことで心配ごとがあるときとか、
 誰それとけんかしたとか、腹が減ったとか、
 映画や小説の話がしたいときとか、
 『校庭のおじさん』のところに行くんですよ。
 おじさんは、教育者じゃないわけだから、
 必ずしも『正しい』とされることを言うわけじゃない。
 いや、『正しい』よりも大事なことを教えるんです」

このおじさんは、とくに教育熱心で、
子どものことをずっとかんがえているわけではないだろう。
ただそこにいてくれて、子どもたちがふっとたちよれるような存在なのに意味がある。
学校の保健室を必要とする子がいるのは、
そこにいる先生が 教室でのできごとや、勉強とは
はなれた存在なのではなしやすいのだろう。
「ののちゃん」にでてくる藤原先生が、
もしほんとうに担任だったらいろいろ問題がありそうだけど、
保健室の先生ならいい味をだせそうだ。

こうした場合、やる気のなさがメリットになっている。
相手がもとめ、せっしやすいのは、
肩からちからがぬけ、仕事熱心でないひとだ。
なにもいわないで、そこにいることだけが
もとめられる場合もある。
トトロだって、そいいう存在ではないか。
トトロはさつきやメイによくしてあげよう、なんておもっていない。
なんだかわからない、おおきなものが、そこにいてくれるだけでいいのだ。

わたしは、「校庭のおじさん」みたいな存在でいたいとおもう。
「ありたい」といっても、なれるものではないかもしれない。
気がついたら、そういう存在だった、というかんじか。
「いる」だけでありがたい存在であるには、
じつはすごいちからを必要とする、なんて教訓めいたはなしではなく、
ほんとうに、ただそこに「いる」だけのおじさんだ。
職場でそんなことを正面からいうと、さしさわりがあるかもしれないけど、
年齢がある程度にたっすると、だんだん「おじさん性」を発揮しても
ゆるされるようにならないだろうか。
なにかを「なす」のではなく「いる」だけでいいとなれば、
やる気のなさがメリットになる場合もある。
それはべつにわるいことではないと、ときどきかんがえる。

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posted by カルピス at 16:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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