すこしまえのブログでふれたように、
これは、青年期と40代の、2つのものがたりが交互にかたられる私小説だ。
だんだんとそのふたつが交差しはじめる。
椎名さんが「あとがき」で種あかしをしている。
「二重構成になっているこのなかの『ひとつの話』は
まあぼくの体験してきた19歳ぐらいから22歳ぐらいまでの
どうにもあぶなっかしい物語を時間の経過どおりに書きました。
それとは別にぼくが実際に行ってきた、
結果的には探検や冒険のようになってしまった世界各地への旅話を、
今度は時間軸を反対にして、その双方を分解し、
パッチワークのようにからみあわせて話をすすめるようにしました」
椎名さんがかかわった楼蘭探検やパタゴニアへの取材は
べつの本ですでになんどもよんできている。
しかし、私小説であるこの本のほうが、
ルポの単行本よりも、その旅のたいへんさがつたわってきた。
ルポものでは、気象条件などの現地の特殊な状況が説明してあっても、
人間関係などのドロドロした部分にはふれられていない。
小説のほうが、ルポよりもリアルなのはめずらしい体験だ。
これまでによんだ椎名さんの本のなかで、
ジャンルをこえていちばんよみごたえがあった。
椎名さんのファンとしては、いくつものルポや取材が、
そしてわかいころのアルバイトが、そういうふうにつながっていたのかと、
解説つきでよんでいるように腑におちる。
これは、「つながり」についての小説でもあった。
キーワードのひとつとして、「つながり」とはべつに
「人生のクライマックス」がでてくる。
「もし、自分のこれまでの人生でクライマックスと呼べるような『一瞬』
あるいは『時』があるとしたらそれは何時のことでした?
というような質問を本気でされて、
それに本気でこたえなければならない場合があるとしたら
おれはなんとこたえるだろう。
そういうことを真剣に考えたことがある。
わりあい早く『その時』が見つかった。
そうだ。たぶんあのときが人生のクライマックスだったのだろう」
こうかかれているのが13ページ目で、
そのクライマックスをずっと頭におきながらよんでいくことになる。
しかし、クライマックスばかりに意識をおいていると、
そこにむけたいろいろなつながりがみえなくなってしまう。
ものがたりのいちばんさいごは、
空港で むかえにきた奥さんに気づく場面だ。
「表情は影になっていてよくわからなかったが、
とにかく妻は一人でちゃんとそこに立っていた」
パタゴニアでの取材中、「おれ」はずっと奥さんの精神状態を心配していた。
無事に奥さんがあらわれて、読者としてはやれやれと安心するのだけど、
このむかえもまた ひとつのつながりをうんでいる。
「(妻の)むこう側に雪を頂いたチベットの山々や、
広漠としたタクラマカンの茶色い砂漠が見えるような気がした」
ちなみに、わたしのクライマックスはいつだっただろう。
『キッズ・リターン』みたいに「まだはじまってもいねーよ」
とはさすがにもういえない。
クライマックスというより、なだらかな丘、
くらいのときはたしかにあった。
丘ではだめ、ということになると、
わたしの人生にはクライマックスがなかったことになる。
それはべつに わるいことではないとおもう。
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