小学校の国語のテストでは、ひとつの漢字について
「音よみと訓よみをかきなさい」
という問題がよくだされた。
わたしはこれがなんのことかまったくわからず、
けっきょくおとなになるまで、
音よみと訓よみがごちゃごちゃになっていた。
あるときから、音よみは中国語で 訓よみは日本語、と
自分なりにとらえることで、なんとなくこの問題をやりすごした。
ひとつの漢字について、音よみと訓よみをどうわけるかしらなくても、
日常生活でこまることはない。
こまらないけれど、日本語を正確にかくことをかんがえると、
漢字の訓よみはおおきな問題をかかえている。
漢字には、ふたつの問題がある。
ひとつは、たくさんの漢字をおぼえなければならないという労力の問題で、
もうひとつが、日本ではひとつの漢字をなんとおりにもよめてしまい、
正書法が確立できない、ということだ。
漢字の訓よみは、日本だけでおこなわれているそうで、
自由といえばきこえがいいけれど、
それぞれのかき手が適当に漢字をつかい、おくりがなをふっている。
さまざまな面で影響をうけていた梅棹忠夫さんが、
訓よみの漢字はつかわないという原則をしめしておられたので、
20代のころからわたしもまねをするようになった。
訓よみのなにが問題かというと、
訓よみの漢字はおくりがながあいまいになり、
正書法として不正確になるからだ。
たとえば「おこなう」を漢字でかくときは
「行う」と「行なう」のどちらなのか。
いちおうきまりがあることになっているけれど
(内閣告示・訓令「送り仮名の付け方」)、
じっさいはどちらの「おこなう」もつかわれている。
また、本書でもとりあげてあるように、「行った」
とかかれていると、「いった」のか「おこなった」のかが
ふりがながなければわからない。
漢字をなんとおりにでもよめることが、なぜ問題なのか。
本書では、社会保険庁の年金記録不備問題を例にあげて、
「名字や名前には二つ以上の読みが存在する、
という日本語そのものの特徴を軽視したことにも一因があった」
と指摘している。
「上村」は「うえむら」なのか「かみむら」なのか。
名字や名前は とくにさまざまなよみかたがみとめられており、
訓よみのおおきな弊害となっている。
「たとえば『和』の字には、『かず』をはじめとして
『あきら』『かなう』『しずか』『すなお』『たかし』『ただし』『ちか』『とし』『なごみ』(中略)など、
人の名として確認されているものだけで数十にものぼる読みが挙げられる」
というから、もうメチャクチャな状態なのだ。
笹原さんは、「だから訓よみはよくないのだ」とはかいていないけれど、
本書の「おわりに」では、
「『ことばは人が生かしている』のであって主体は我々自身である。
必要なことばを表記する文字を適切に選び変えていくことの責任は重い」
という指摘があり、訓よみの制限を支持されているようにおもえる。
日本人は、日本語について、これからどんな変化をえらんでいくのだろうか。
笹原さんのたち位置は非常に公平で、
「◯◯でなければならない」といったきめつけがいっさいない。
漢字のよさを強調するでもなく、
問題点に絶望するのでもなく、
状況を整理したうえで、これからの変化に期待されている。
「ローマ字だけで日本語を記す人たちや、
カタカナだけで記している人たちも確かに存在しており、
より良い日本語表記を目指した様々な努力も続けられている」
というとらえ方は、できれば漢字をつかわずに、という立場のわたしにとって、
とても気もちがいいものだった。
わたしは、訓よみには漢字をつかわないかきかたが、
訓よみの問題をさける現実的な方法におもえる。
しかし、なにかほかにもわかりやすく日本語がかける
原則があるかもしれない。
漢字のつかい方は、ネットの存在もおおきな影響をあたえるだろう。
日本語が、わかりやすく まなびやすいことばに変化するよう ねがっている。
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