初優勝をきめた。4大会連続ベスト4どまりだったこともあり、
「どうしてもほしいタイトル」と選手たちはくちにしていた。
アジア杯は、国際サッカー連盟(FIFA)が国際試合日と位置づけておらず、
ヨーロッパのチームに所属する6人の選手が限定的な参加にとどまっている
(大儀見選手は予選リーグのみ参加)。
主力選手がいなくても、優勝をきめたのだからたいしたものだ。
今回は、FIFAの規定によりヨーロッパの選手をよべなかったけど、
なかなかベストメンバーがそろわない、
そろわないものは、それはそれでしかたがない、といううけとめ方が
サッカーのひとつの特徴とはいえないだろうか。
サッカーでは、ケガや体調不良により、
だいじな試合であったもつねにベストメンバーがそろうとはかぎらない。
天皇杯の予選など、外国人選手や監督は帰省していることさえある。
競技としのサッカーをしたことのないわたしには、
ここらへんの感覚がいまひとつ理解できない。
もちろん、サッカーが非常にはげしいスポーツであり、
中途半端な体調では試合にのぞめないことはわかっている。
しかし、それを考慮したうえでも、なお
サッカーの選手・監督たちは、わりとあっさり「しかたがない」
とあきらめられるようにおもう。
それは、サッカー的といえる価値観ではないだろうか。
ひとつの仮説として、
サッカーは都合のつくものがあつまって
試合を成立させていたおおむかしの記憶を
いまものこしているのではないか。
村対抗の群衆フットボールでは、
ベストメンバーがどうのこうのうのよりも、
都合のつくものがあつまって、
それでなんとかやりくりして実現させる「あそび」だった。
用事があったり、ケガをしていたらしかたがない、
あつまったものでなんとかやりくりする。
1年にいちどのおまつりなのだから、
かちまけ だけにこだわるのではなく、
おまつりとしてのフットボールをもりあげようとする社交の精神だ。
「なにがなんでも」ではなく、都合のつくものでやりくりしようとする価値観を
サッカーはいまもうけついでいるのではないか。
アジア杯での優勝がきまると、解説者や新聞・ネットの論調は
ベテラン選手と若手との融合がうまくすすんだと評価するものだった。
わたしにはあいかわらずW杯経験者だよりのチームにおもえたけれど、
とにかく海外のチームに所属する6人をかきながら、
優勝という結果をだせたのはすばらしい。
大会で試合をかさねるうちに、なんとかかたちをととのえた代表チームは
サッカーらしい精神をみごとに体現したといえる。
いまいる選手たちでアジア杯にのぞむ、
あつまれない選手のことをどうこういってもしかたがない、
これが自分たちの実力なのだ、というサッカーらしいわりきりだ。
こういうのも、歴史と経験をかさねなければ身につかない
サッカーのつよさなのかもしれない。
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