エバーノートによる日記にふれるなかで、
梅棹忠夫さんの「京大式カード」がでてくる。
http://cyblog.jp/modules/weblogs/15169
「梅棹さんがEvernoteのことを知ったら
『なんてぜいたくな!』と思うことでしょう。
しかし『京大式カード』でたいへんな苦労をしつつ
『記憶検索システム』によって作り上げられたほどの成果を、
私がEvernoteから得られているとはとうてい思えません。
個人的にはいやな話なのですが、
苦労を経ないで得たシステムにふれていると、
ありがたみを十分実感する以前の段階までしか、
なかなか行き着けないようなのです」
これは、まさしくわたしが仕事術関係の記事をよむときに
かんじていることだ。
タスク管理など、さまざまな工夫をこらしながら、
いったいそのひとは全体としてどんな成果をあげているのか。
梅棹さんや川喜田さんみたいに、
壮大な仕事をまとめるのが仕事術の役割であり、
どんな仕事をしたのかこそが大切なはずだ。
自分のいたらなさのはなしでもある。
ネットとつねにつながり、クラウドツールをつかえる環境にあるわたしが、
ではその機能をどれだけ知的生産にいかせているか。
便利さにひたるだけで、
アナログ時代とたいしてちがわないことをしているにすぎない。
梅棹さんは、個人の知的生産をたかめる技術を、
川喜田さんはグループの衆知をあつめる方法をおしえてくれた。
それらはだれでもつかえる技術ではあるけれど、
それらをつかってどんな成果をあげるのかは
それぞれの利用者にかかっている。
ある段階までは、それでいける。
そして、天才たちはそのさきへ
技術とはちがうはしごをつかってのぼっていくのだ。
仕事の成果をきめるさいごの一歩は、
けっきょくのところひじょうに感覚的なもので、
アナログやデジタルということは本質と関係がない。
せっかく梅棹さんが大衆レベルまでおりてきて、
わたしたちにしめしてくれた知的生産の技術を、
ネット時代になったからといって画期的にたかめられないのは、
さいごの一線をこえるのが、技術ではなく感覚の問題だからだ。
ただ、これでは凡人は天才になれないという、
身もフタもないはなしになってしまう。
一般大衆による知的生産の技術に梅棹さんは期待したのであり、
だれもがさいごの一線をこえる必要はない。
個人としては画期的な変化がなくても、
全体としての知的生産の蓄積は、
いぜんとはくらべものにならないレベルにたっしているはずだ。
一人ひとの知的生産についても、
どんな成果をあげたいのかについて目的をはっきりさせれば、
クラウド時代の恩恵をいかせるのではないか。
佐々木さんのいわれる
「苦労を経ないで得たシステムにふれていると、
ありがたみを十分実感する以前の段階までしか、
なかなか行き着けない」
は、ほんとうにそのとおりだとおもう。
便利さをもとめるだけでは成果がでない。
なにができるか、ではなく、なにをしたいか、
そして、なにをしたかがとわれる。
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