2014年06月19日

マイナスの感情をどうあつかうか

「ほぼ日」の「恋歌くちずさみ委員会」をよんでいて、
ほぼ日のスタッフが、投稿者の気もちをよくかんがえてコメントするのにいつも感心する。
いや、それは仕事だからあたりまえか。
すごいとおもうのは、どの曲も公平にあつかう姿勢だ。
わたしは、きらいな歌手の曲がとりあげられたりしたら、
あたまからその曲、そして投稿そのものを否定してしまうだろう。
そこらへん、ものすごくこころがせまい。
「オレ、この歌手きらいだから、今回はおります」
なんてやってたら仕事にならないので、
残念ながらほぼ日のスタッフにはなれそうにない。

ラジオの番組で、たとえばゲストによんだ歌手が
あたらしいアルバムをだしたときなどに、
たとえあんまりパッとしない曲であったとしても、
司会者はいいところをちゃんとみつけだして
肯定的な感想をつたえる。
つまらないとおもっていながら
「いいですねー」は、なかなかじょうずにいえるものではない。
マイナスの評価を口にしないのは、番組として当然の態度とはいえ、
わたしにはつとまりそうにない。

本でも、わたしがすきなひとが批判した本や、
ワイドショーなどでずれた発言をとりあげられた作家などは
どれだけ話題になっていてもよんでみる気にならない。
作家の発言と本のなかみは関係ないかもしれないのに、
賛成できない発言をきいたら、そのひと全体を否定してしまいがちだ。

こんなことをかくと、わたしがすごく傲慢で、ずうずうしい人間みたいだけど、
じっさいにひととせっするときのわたしは
常識的な範囲内で意見のやりとりをしている(とおもう)。
ただ、やりたくないことはやりたくないわけで、
すきでない歌手の曲をじっくりきいて
いいところをみつけようとはおもわないし、
うけいれがたい発言をした作家の本は よむ気にはなれない。
無理をしたら、なんどかはしのげるだろうけど、
けっきょくはながくつづけられず、その仕事をやめなければならないだろう。
「いやなことはしない」のは、わたしのなかでかなり大切な方針となっている。
だれにでもそんなマイナスの感情をもつわけではなく、
おおむねニュートラルな心境をたもっているつもりだけど、
いちどきらいになると、そのあとはこころをひらきにくい。

週刊誌の広告などをみると、
こんな記事をかかされたらいやだろうなーとよくおもう。
興味をもてない、くらいだったらまだしも、
会社の方針にそって、かきたくない記事をかく記者はたいへんだ。
あきらかにおおげさだったり、取材の対象者に敬意をはらってなかったり。
いかに仕事とはいえ、してはいけないことは したくない。

べつの新曲の発表でなくても、日常生活において、
なにかしらコメントがもとめられることはおおい。
あまりいい感想をもたなかったときでも、
テキトーなことをいってしのいでいるのだから、
やろうとおもえばなんとかなるのだろう。
相手の気もちをかんがえるのは当然のことで、
たいしたできでなくてもほめるし、
ほめないまでもわざわざ悪口をいうことはない。
ただ、それを仕事としてやらなければならないとしたら、
どこかに意味をみいだせないと つづけにくいだろう。

すき・きらいのおおさは、繊細さではなく、
こころのよわさをあらわしている。
ちょっとした我慢が わたしはできない。
「いやなことはしない」といって
きらいなものをこばんでいたら、
けっきょくは自分にはねかえってくる。
じょうずにウソをつくことは、社会を生きぬくうえでの大切な知恵なのが、
西原理恵子さんの本をよむとよくわかる。
でも、ウソもまた なかなかむつかしい。

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posted by カルピス at 23:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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