週刊文春に連載された記事をまとめたもの。
「本が多すぎる」とはネガティブな表現だけど、
酒井さんはもちろん本をよむたのしさをよく理解しているひとで、
「本はまた、別の本を連れてきてくれます。
ある本を読んでいたら別の本についてのことが書いてあって、
それを読んだらまた別の本が読みたくなって・・・と、
芋づる式に読みたい本が現れる嬉しさよ。
そんな『読みたい本』が枕頭にそして机上にある時は、
『約束された幸福な未来』が、本の形をとって
そこに存在しているようではありませんか。(中略)
本書は、そんな私の『本がつながる喜び』を綴ったものです」(「まえがき」)
は、本ずきならではのおもいであり、「多すぎる」は謙遜にすぎない。
酒井さんのすぐれた観察眼は、こうしたはばひろいジャンルの、
ゆたかな読書によってやしなわれていることがよくわかる。
各回は「トイレで読書、女子マネ、鷺沢萠」というふうに、
2〜3つの「お題」があげられており、それぞれのお題について
本をとりあげながら はなしがふくらんでいく。
はなしのはいり方が独特で、本とは関係ない話題をきりくちにしながら、
なんとなく本題にはいっている。
それぞれの「お題」について数冊の本をとりあげているから、
全体ではそうとうな数だ。索引には300冊ほどの本がならんでいる。
『本が多すぎる』とは、自分がよんできた膨大な数の本のことではないか。
とりあげられた本は、「女」を話題にしたものがおおい。
「女」への視線は酒井さんならではふかさとやさしさがある。
たとえば『さいごの色街 飛田』では、
色街について、批判的なみかたをかんたんにもちこんだりしない。
「平安時代の女性達も、そして飛田の女性達も、
小さな部屋でひたすら男性を待っているところは同じ」
といい、どんなシステムで、どんな女性がはたらいているかなど、
酒井さんは偏見をまじえない好奇心をむける。
「女」や「性」をかたるときの距離感がすばらしく、
これがあまりにも正義の味方からの視点ではおもしろくないし、
スケベごころまるだで対象にせまられてはしらけてしまう。
酒井さんはそだちのよさがうまくはたらき、
どんな場合でも上品さと誠実さがつたわってくる。
酒井さんの誠実さは、震災直後にかかれた記事のかきだしにあらわれている。
「かくも深い悲しみが日本人の心に張りついていても、
芽吹く葉があり、咲く花があることは、私達の心をうるおしてくれる」
たった2行のこの文章。しかし、それ以外に、あの時点でなにがかたれるだろう。
まったくふれないのはどうかしている。
でも、こころが動揺しているときに、
わかったようなことをヒステリックにかくべきではない。
酒井さんはこの2行のあとに、いつものような記事をつづけている。
わたしは酒井さんのかるさとともに、
このまじめさがとてもすきだ。
おかしかったのは、女性誌のインタビューをうけ、
その雑誌の購読者にむけて「何かメッセージを」といわれたときに
「女性誌を、読まないようにすれば
いいのではないですかね?」
とこたえるところ。
うけをねらっての「メッセージ」ではなく、
酒井さんならではのまじめな提案だ。
諸悪の根源が、じつは主体となって女性たちをあおっているメディアであり、
それは、いわれてみればもっともなのに、なかなか気づかない。
いっしょに頭をかかえてなやんでしまいがちなところに、
酒井さんはスッと目をむける。
「日本の、ある年齢以下の女性が抱える悩みのほとんどは、
女性誌が原因になっているような気がしてならない」
「女性誌が若い女性に対して最も強く与えているプレッシャーが、『モテ』だろう。(中略)
いわゆる赤文字系雑誌に黄溢する『モテねばならぬ』という意思には、
鬼気迫る感すら漂うもの」
わたしがしらない本もたくさん紹介されている。
小説よりも、それ以外のジャンルのものがおおい。
文庫本はほとんどないので、手にするには図書館へかようことになりそうだ。
「まえがき」にあったように
「芋づる式に読みたい本が現れる嬉しさ」となることをねがっている。
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