ちょっとえらそうにかいたけど、
まえから自分の家事能力がどの程度のものなのか 気になっていた。
そうじはするし、配偶者と交代で、週に3〜4回の夕食をつくる。
洗濯は、洗濯機にいれればやってくれるのだから、
まったく抵抗がなく、はれた日に洗濯ものをほすのはすきなくらいだ。
こういう人間は、客観的にみて、どう評価できるだろう。
梅棹忠夫さんが『妻無用論』のなかで
「今後の結婚生活というものは、
社会的に同質化した男と女との共同生活、というようなところに、
しだいに接近してゆくのではないだろうか。
それはもう、夫と妻という、社会的にあいことなるものの
相補的関係というようなことではない。
女は、妻であることを必要としない。
そして、男もまた、夫であることを必要としないのである」
とのべている。
いよいよわたしの時代がくるのだろうか。
タネあかしをすると、『妻無用論』がかかれたのは1959年なのだから、
わたしが家事力を発揮するには、生まれるのがすこしおそかったようだ。
『妻無用論』というと ずいぶん過激な提案にきこえ、
女性たちの気もちを逆なでしそうだ。
じっさい、発表した当時は 女性たちにたいへん不評だったという。
しかし、『妻無用論』で梅棹さんがいいたかったのは、
女性は家事労働のにない手という 妻の立場にしがみつかず、
社会にでて自分の能力を発揮すればいい、というものだ。
妻としての本分をつくせ、よりも、
ほんとうの意味で女性の側にたつかんがえ方といえる。
マキで炊事するわけではないし、洗濯機や掃除機もある。
家事労働は、むかしとはくらべようもないほどすくなくなったのだから、
いつまでも夫に依存する妻という役割はおかしくないか、という異議もうしたてだ。
『妻無用論』の発表以来、どれだけこのかんがえ方がひろまったといえるだろう。
先日の東京都議会でのセクハラヤジ事件をみればわかるように、
いまもまだ女性への性的差別は根づよく、
女性が男性とおなじ条件ではたらける環境になっていない。
また、妻であり夫であるという固定的な役割分担も
人々の意識のふかいところでいきのびている。
50年まえにくらべ 世のなかはますます便利になり、
スーパーやコンビニで調理ずみの料理をいくらでもかえる。
夫が、男であることにあぐらをかかないかぎり、
家事労働は いまやだれでもうけもつことができる。
もっとも梅棹さんは、『妻無用論』で 家事の分担をうったえているのではない。
やらずにすむ家事は、やらない、
やらなければならないのなら、できるだけ手をぬく。
そのうえで、妻だから家事をしなければならないのは
おかしいというとらえ方だ。
そうした意味からは、わたしの梅ぼしづくりなんて、
べつにいばれることではなく、
ただたんに趣味的な家事として 手間をたのしんでいるだけだ。
いまの時代にくらすなら、家事能力のとぼしさは、
ぜんぜん問題とならない。かわりにやってくれる店がいくらでもある。
いくらわたしの家事能力がすぐれていても、異性としての魅力とはならず、
そんなことよりも大切なのは経済力であることを
女性たちはちゃんと理解している。
50年もまえに、梅棹さんは妻が無用となるながれを予測していた。
これは、そうあるべき、という梅棹さんのねがいではない。
世界の文明を観察してきた梅棹さんにとって、
夫に依存しない生き方へのうつりかわりは必然だったのだ。
日本はいまもなお「『妻無用論』においついていないようにみえるが、
それはみかけだけであって、女性たちの内面では、
着実に妻であることへの否定がすすんでいる。
少子化も、そのあらわれのひとつだろう。
家事は、できないよりもできたほうがいいけど、
いまは、家事力がなくても自立できる ありがたい時代となった。
自立度がたかければ、べつに梅ぼしをつけれなくても生活にはこまらない。
自立度に、男も女も関係ない。
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