2014年08月13日

きのうの新聞もあんがいわるくない

新聞の休刊日には(正確にいうと休刊日の翌日には)、
朝ごはんのときにまえの日の新聞をひろげる。
行儀はわるいかもしれないが、
ひとりでたべることがほとんどなので、
もう習慣になってしまった。
新聞をひらかないことには 手もちぶさたで間がもたない。
おなじ紙面を2日つづけてみたくはないけれど、
習慣であり、休刊日なのだからしかたがない。
かわりに本をよむ、というわけにはいかず、
1ヶ月にいちどのたいくつな朝となる。

でも、もういちどまえの日の新聞に目をとおしてみると、
よんでなかった記事がいくつもあるもので、
あんがいおもしろくよめるものだ。
おわってみれば、休刊日といえども いつもの朝とかわらないぐらい
朝ごはんと新聞のセットにお世話になっている。

いちにち分の新聞には、500くらい記事がのっているそうだから、
よほど時間をかけななければ すべての記事をよみとおせるものではない。
いつもは朝のかぎられた時間に、興味のある記事だけをひろっているので、
ずいぶんもったいないことをしてるのだろう。
2日つづけておなじ紙面をひらいても、
まだよんでいない記事ほほうがおおいのだ。
休刊日は月にいちどのたいくつな朝、とかいたけれど、
あんがいくるしまずにすごせるのは、
いつもたいして記事をよんでいるわけではないからだろう。
もしかしたら、2日にいちどの配達でも、
それほどこまらないからかもしれない。

なにかの機会に古新聞に目をとおすと、ついひきこまれてしまうのは、
またべつのはなしだとおもう。
ふるい新聞が意外とおもしろいのは、
よんでいない記事がいかにおおいかよりも、
2度目の本や映画が、いちど目とまったくちがう印象をうけるのとにている。
そうした意味では、休刊日の朝に有効なのは、
きのうの新聞ではなくて、古新聞のほうかもしれない。

旅行にでかけたりして、1週間分の新聞をいちどによんだりすると、
たのしみにしていたまとめよみなのに、
あっけないくらいみじかい時間で目をとしてしまう。
新聞に毎朝かけている時間は、いったいなんなのかとおもえてくる。
新聞をひらくのは、記事の内容を理解するためというよりも、
ほとんど朝の習慣でやっているにすぎず、
ご飯をたべながら新聞に目をやること自体が目的かもしれない。
あたらしい情報をしいれなくても、
紙面をひろげれば、それでもう気がすむのだ。

2日目の新聞をひらいてなにをするかというと、
よんでない記事をさがすだけでなく、
おなじ記事をよみかえしたりもする。
一定の時間を新聞にあてればいいのだから、それでも目的は はたせるのだ。
なくなった父が、たいくつしのぎになんども新聞をひろげているのを
露骨にばかにしてきたわたしなのに、
あんがいおなじようなことをやっている。
退職後、図書館に「通勤」してくるおじさんたちは、
みかけよりも充実した時間をすごしているのかもしれない。
ただ、ここで強調したいのは、わたしの問題は
新聞をよむ習慣をどう処理するかについてであり、
たいくつな時間をどうまぎらすかではない。

そもそも、なんで休刊日が設定されているかというと、
新聞配達のひとたちにおやすみをとってもらうためだときいた。
たしかに毎朝のはやおきはたいへんだろうけど、
ほかの業界は年中無休でやっているところもおおいのだから、
新聞だけが月にいちどのおやすみを絶対視するのはおかしな気がする。
休刊日はさほどこまらない、とかきながら、
できれば毎朝とどけてもらいたいともおもう。
きのうの新聞もわるくないけど、あたらしい紙面のほうがありがたい。
習慣の問題だから。

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posted by カルピス at 21:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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