たとえば赤ちゃんのなき声に我慢できなかったり、
ある種の生地でできた服が皮膚にあたるのを
ひどくいやがるひとがいる。
体温調節が自分ではうまくできず、気温があがると
イライラしたり体調をくずすこともある。
ちょっとぐらい我慢したらいいのに、
とまわりはかんがえやすいけど、
本人にとっては パニックになるくらい ひどい苦痛なわけで、
そうかんたんに我慢したり なれたりはできない。
わたしは、パニックにならないまでも、
かなりの皮膚過敏症で、ちょっと汗をかいただけでいやなかんじになり、
そのつどシャワーをあびなければおちつかない。
いちにちに8回くらい汗をながすのがあたりまえで、
ひとさわがせだし、不自由なので 自分でもいやになってしまう。
自分がすこしの汗も我慢できない わがままな人間におもえてくる。
自閉症の当事者の方が、自分の感覚が どれだけまわりのひととちがうかについて
本にかいたり、講演会などではなされるようになった。
感覚の特異性でいうと、シャワーや雨の水滴をあびたときに、
まるで針にさされたようないたみをかんじるひとも おられるそうだ。
そんなときにも、自分はシャワーがいたくてたまらないのに、
まわりのひとは我慢できてえらいなー、とおもっていたという。
こういうときは、まわりを基準にかんがえやすく、
自分の感覚のほうがおかしいとおもってしまう。
まわりのひとは いわれなければわからないし、
いわれても、そうかんたんに共感できるわけではない。
千葉県の教育委員会が、学校でエアコンをつかわないことをきめたと
夏のはじめにニュースがつたえていた。
あつさを我慢するのも教育だ、みたいな趣旨だったとおもう。
これをきめたひとたちは、だれもが自分とおなじ感覚だときめつけている。
自分とはちがった感覚のひとがいることを、想像できないのだ。
自分を基準にかんがえて、ある程度までのあつさなら、
だれでも我慢できるはずだとおもいこむ。
できないひとの存在が理解できない。
まえの職場でわたしは、夏のあいだずっと半ズボンで仕事をしていた。
30代のころのはなしだ。
エアコンがない作業棟での仕事だからと、
あたりまえみたいに半ズボンをはいていたけど、
よくかんがえたら、そんなことが社会人としてよくゆるされていたものだ。
半ズボンのまま、平気で仕事関係のひとにあっていたし、
どこにでもでかけていた。
まったく非常識にもほどがある、といまではおもう。
当時の上司は、よほどできた人物だったのだろう。
いまはさすがに夏でも長ズボンをはくようになった。
それだけ夏のあつさがたいしたことなくなったから、ではなく、
夏とはいえ、おとなが半ズボンではたらくものではないと、
ようやくわたしも気づいたからだ。
さらにいえば、そのころは、アパートでかっていたネコといっしょに通勤していた。
車にネコをのせて職場へゆき、かえるときはまた車にさそう。
アパートにネコをひとりのこすのはかわいそうだから、というのが理由だった。
いまおもえば、どうしてそんなことがみとめられていたのだろう。
それだけゆるい社風であり、すぐれた上司だったことと、
それに、ネコをつれていくくらいはあたりまえだろうと、
わたしもおもいこんでいた。
よくかんがえてみると、半ズボンはともかく、
ネコといっしょの通勤は、そうめちゃくちゃでないような気がする。
それがゆるされる会社と、ゆるされない会社があれば、
ゆるしてくれるほうが断然かざとおしがよく、はたらきやすい環境だ。
グーグルにあつまるような超エリートは、そっちのほうをもとめるのではないか。
千葉県の教育委員会は、学校でのエアコンを、
わたしの半ズボンやネコ同伴出勤とおなじような
「我慢できる」わがままと とらえたのだろうか。
これだけ当事者の声がきかれるようになったにもかかわらず、
障害をもったひとのなかには、自分がかんじるより
はるかにあつさで混乱するひとがいるという 認識がかけている。
そうやって、県のトップが自分の感覚をあたりまえだとおもいこむと、
まわりにいるひとはたいへんだろう。
規則でしばろうとしても例外はかならずあり、
その例外をどうあつかうかで、組織の柔軟性がみえてくる。
自分を基準にし、まわりにもそれをもとめるかんがえ方は、
障害があってもなくても、対象となるひとをしあわせにしない。
わたしがもし部下をもったとして、
そのひとがネコをつれ、半ズボンをはいたときにどう対応するか。
もちろん状況にもよるけど、あきらかに不適切でないかぎり反対はしない。
自分には我慢できるあつさでも、エアコンを必要とするひとがいれば スイッチをいれる。いじわるだから、職場でのシャワーは3回まで、くらいはいうかもしれない。
まわりのひとも、みんな自分とおなじ感覚だと、おもいこまないほうがいい。
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