映画の『思い出のマーニー』をみた感想として、
原作をうまくいかした、なんて調子のいいことをブログにかいたけど、
本をよんだのはずいぶんまえのことなので、
なんとなくそうおもいこんでいただけかもしれない。
ほんとはどんなはなしだったのか、もういちどよんでみることにした。
原作は1967年にイギリスで、
日本では1980年に岩波少年文庫から出版されている。
・ふとっちょブタ
・ワンタメニー(映画では十一「といち」)
・おばさんがアンナをやしたうためのお金をもらっていたこと
・しめっち屋敷でのパーティーで、アンナが花をうること
・風車小屋(映画ではサイロ)のあつかい
・しめっち屋敷の絵をかいていた老婦人
原作をよむと、映画はほぼ原作にそって設定されているのがわかる。
それぞれのエピソードが重要な伏線となっており、
はずしてしまえばものがたり全体がかわってしまうからだろう。
多少の変更があっても、それは原作を無視したものではなく、
『思い出のマーニー』を現代のものがたりとしてみるために必要だった
適切なアレンジだ。
それだけよくできた原作であり、
その設定を、どうやって違和感なく現代の日本にうつすかが、
米林監督の最大の仕事だったのではないか。
原作では、とくに下巻にはいって
アンナがどんどん自分をとりもどしていく姿は圧巻だ。
マーニーがアンナのまえにあらわれなくなり、
かわって しめっち屋敷にひっこしてきたリンゼー家のひとたちにうけいれられることで、
「ふつうの顔」でやりすごしたりしない、
生き生きとした女の子にかわっていく。
『思い出のマーニー』というタイトルでありながら、
マーニーがでてくるのは、下巻の33ページまででしかない。
アンナがマーニーとすごしたのは、じつはほんのわずかなあいだなのだ。
自分とはまるでちがう環境にいるマーニーとやりとりすることで、
アンナは自分が「おばちゃん」やほかの大人たちにかんじているいかりを、
もういちど自分にといかけるようになる。
原作では、ものがたりの後半をリンゼー家
(映画ではさやかの家族)といっしょにすごしており、
自分をつくろわなくても うけいれてくれる仲間をえたことで、
アンナが生きるちからをとりもどしていく。
アンナが生まれかわっていたからこそ
マーニーの、そして自分の秘密をうけいれることができた。
謎がときあかされていく過程は 上質のミステリーのようで、
バラバラだったパーツが、さいごにはおさまるところにカチッとはまっていく。
映画での杏奈は12歳という設定なのにくらべ、
原作のアンナは10歳くらいではないか。
その2歳の差はずいぶんおおきいはずなのに、
映画と原作とも、みおわったあと、よみおえたあとの感想に
おおきなちがいはない。
もし杏奈が10歳だとしたら、この作品はずいぶんちがうものがたりになっていただろう。
年齢の設定が、原作と映画とのちがいでいちばん気になる。
ジブリ作品とはいえ、ポニョみたいな作品を期待したお客さんには
期待はずれの面があるかもしれない。
しかし、『思い出のマーニー』は 宮崎さんの作品にはない魅力をもっている。
宮崎さんがつくったとしたら、こんなしずかなテンポで
ものがたりがすすむわけがない。
「さやかちゃん」が大活躍して
杏奈のマーニーさがしに協力したりするのではないか。
もちろん杏奈とマーニーは、しめっちの上空をとびまわるだろう。
米林監督ならでは、というか、
宮崎さんぬき、という状況ではじめて可能になった
ジブリのあたらしい方向性をしめす作品となっている。
しばらくまえに、鈴木敏夫さんが、
ジブリはとうぶん長編作品にたずさわらない、と発表した。
興行的にはどうだったかわからないけど、
『思い出のマーニー』は第1級の作品にしあがっている。
これからもジブリは自信をもって米林監督作品をおくりだせるとおもえるだけに、
残念な発表だった。
スポンサードリンク