2014年09月23日

それは愛なのか、それとも湯たんぽなのか

ひさしぶりにハグキがはれてきた。
いたくてものがたべられない。
バファリンをのむけどほとんどきかず、
らくな姿勢をいろいろためしながらベッドでよこになる。
唯一のすくいはピピの存在で、
わたしのうでにぴたっとくっついたまま まるくなってねむる。
このあたたかさが どれだけありがたいことか。

なんねんかまえにも、歯がいたくなったとき
こうしてピピにたすけられた。
となりでグーグーねている家族より、
あたたかさをつたえてくれるピピのほうが
ずっとちからづけてくれるのがわかった貴重な体験だ。
病院で死ぬことや在宅医療がこのごろよく話題にのぼるのも、
みまもるだけでなく、からだにふれていてもらいたいからではないか。
家族ならいうことないし、さいごにつくしてくれたケアスタッフが手をにぎってくれたら
さみしいおもいをしなくてすむにちがいない。
「とおくの親戚よりちかくの他人」というけど、
病気になったときや、死がまぢかにせまったときは、
もっと切実にひとのぬくもりになぐさめられる。
老人ホームなどで犬やネコがもとめられるのは、
きっと彼らのあたたかさ・やわらかさにすくわれるからだ。
「ちょっとまっててねー」というだけで
いそがしくてなかなかはなしをきいてくれない職員より、
そばにいてからだをなでさせてくれる動物は、ずっと気もちをやすらげてくれる。
「ちかくの家族より となりのネコ」ということばをおもいついた。
からだをくっつけて、ふれあうのがたいせつなのだ。
欧米はともかく、日本ではたとえ家族でもスキンシップはスマートにいかない。

星野博美さんの『島へ免許を取りに行く』(集英社)をよんでいたら、
星野さんが教習所にいる馬にまたがったとき、
そのあたたかさにおどろくはなしがでてくる。
星野さんは、いっしょにくらしていた ゆき(ネコ)が、
さむいときは自分のからだにくっついてきたことをおもいだす。
星野さんはそれを「愛」だとおもっていたけど、
もしかしたら 巨大な湯たんぽであたたまっていたつもりかもしれない、
とゆきの気もちにおもいをはせる。
ネコのすることは、おおかれすくなかれ そうした自分本位な面があり、
人間はかってに相思相愛ぶりに感激してるけれど、
いいようにつかわれていることがおおいのかもしれない。
そこがまたネコのたまらないかわいさでもある。

この本は、星野さんが愛猫のしろに死なれたかなしさからたちなおるために、
長崎県の五島列島にある自動車学校へいくはなしだ。
愛するネコにさきだたたれたとき、
ネコずきは どうやってつらい時期をのりきるのかがしりたくて アマゾンに注文した。
ネコの死だけでなく、人間関係もひどい状態になっていた星野さんは、
離島というめぐまれた環境で なかなかうまくならない自動車の運転に正面からむきあう。
どうにもならなくなったときは、星野さんみたいに、
それまでとまったくちがう体験をもとめるのもひとつのやり方だ。
さきがみえていると こまかな計算をする余裕があるだけ
べつの世界にぬけだせない気がする。
あえてかかなかったのだろうが、本のなかで
星野さんはゆきのことにほとんどふれていない。
星野さんは未知の世界に自分をおいこむことで「免許に救済をもとめていた」。
そしてそれは正解だった。

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posted by カルピス at 20:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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