本書は 梅棹忠夫氏が1969年にかきあげ、
いまもなお読者をふやしている『知的生産の技術』に焦点をあてたものだ。
出版されてから40年以上たったいまも、
おおくの点で参考になるすぐれた本とはいえ、
当時といまでは さまざまな条件が ずいぶんかわってきている。
ノートパソコンやエバーノート、それにクラウドといったあたらしい環境を、
『知的生産の技術』でいかすとすれば
どんなつかい方ができるのか。
そして、その「知的生産」はなにを生みだせるのか。
「はじめに」をみると、本書は『知的生産の技術』のアップデートをこころみたとある。
しかしこの本のすばらしさは、それだけにとどまらない。
本書の内容は、おおきく3つにわけられる。
1 梅棹忠夫とはどんなひとだったのか
2 『知的生産の技術』をいまの時代にいかすには
3 世界に+(プラス)の影響をあたえるために
第7章がそのまま3つめの内容であり、
この本のよさはここに集約されている。
1と2でのべてきたことが、
3で一挙にクライマックスをむかえるさまはみごとだ。
もちろん、「知的生産の技術」を現代の環境で応用するのは
大切だとおもうけれど、
ただたんに、40年まえにできなかったことを、
最新の環境をいかして可能にするだけなら、あまりおもしろみはない。
これまでにも類書があっただろう。
あえて梅棹さんの名前をもちだすのだから、
ここはなにか ものすごくおおきな夢をみさせてほしいところだ。
本書は正統的な「知的生産」にとりくみながら その期待に堂々とこたえてくれた。
本書のすばらしさは、『知的生産の技術』のアップデートにとどまらず、
知的生産をとおして いまという時代に
なにができるかをかんがえた点にある。
梅棹さんの仕事は、せんじつめていえば、
世界をよくするためのこころみであると
ひろくみとおしたうえで位置づけ、
読者もまたその事業に参加できるという、
みごとなアジテーションの書となっている。
技術だけでなく、梅棹さんの思想をうけついでいるのだ。
「知的生産とは、世界に対して小さな+(プラス)を
積み重ねていくことだと述べてきました。(中略)
大切なのは、インプットとアウトプットの循環を続けることです」p228
「自分たちの知的な好奇心や驚きや感動を人に伝えることで、
世界がほんの少しでも良い方向に変わるのだと信じようではありませんか」p243
「どうすれば、こうしたかけがえのない人材になれるのでしょうか?(中略)
これは、知的生産のセンスを身につけた人にほかならないのです」p253
ちょくせつ梅棹さんにおそわったわけでもない
堀氏やまつもと氏のようなわかい方がたが、
梅棹さんの仕事を こうしてひきつぎ 発展させてくれることに感謝したい。
わたしもまた、ちいさなプラスをつみかさねていこうと
「知的生産」の実践をたきつけられたおもいだ。
そのことで
「世界がほんの少しでも良い方向に変わるのだと信じ」たい。
よみおえたあとのすがすがしさは、
自分の人生をじゅうじつさせながら、同時に
世界をかえていく可能性や希望をだかせてくれるからだろう。
まさしく『知的生産の技術』をよんだときとおなじ興奮がよみがえる。
梅棹さんの仕事をただしくひきつぎ、つぎの世代に手わたす
壮大な本にしあがっていることをたかく評価したい。
(追記)
本書にもあげてあるように、
『知的生産の技術』だけでなく、
梅棹さんの著作はどれもすばらしい本ばかりだ。
たとえば『モゴール族探検記』は、35歳の青年が
どうしたらこのようにふかい教養がにじみだす本をかけたのか。
京都学派の伝統と蓄積のあつみをおもわずにおれない。
いまイラクやアフガニスタンでおきている民族や宗教によるあらそいは、
その下地のおおくが この本でふれてある。
『文明の生態史観序説』では、
地理的・生態的な必然から、
日本とヨーロッパは平行進化したという歴史観をとなえている。
ヨーロッパからまなんだおかげで日本は発展したのではなく、
同時平行的に両地域は発展していたのだ。
梅棹さんはこの学説を、カーブルからカルカッタまでの自動車旅行がヒントになって くみたてている。
旅行中に観察したひとびとのくらしと生態系の変化。
それを分析し、仮説をたて、検討をかさねること。
これこそがフィールドワークをいかした「知的生産」だ。
ちょうど講談社学術文庫から『日本探検』が文庫化された。
おおくのひとに 梅棹さんの本を手にとってもらえたらと ねがっている。
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