2014年10月11日

『舞妓はレディ』(周防正行監督)お茶屋世界のきびしさに、自分のたちふるまいのいたらなさをおもう

『舞妓はレディ』をみる。
先月の『思い出のマーニー』につづいて観客は2人だけだった。
みはじめてから、『舞妓はレディ』は「マイ・フェア・レディ」のオマージュなのだと気づく。
言語学者がわかい女性のなまりを矯正し、一人前の舞妓にそだてる。
映画のなかできゅうにうたがはじまったときは、
わたしがにがてなミュージカルかと がっかりする。
とくに大学の研究室での、とってつけたような うたとおどりには うんざりした。
ミュージカルにする必要なんてなかったのに。
その違和感から、なかなか映画にはいりこめない。

それに、いかにオマージュといっても、田舎からでてきたわかい女の子に
京ことばをマスターさせ、舞妓へとデビューできるかを かけるなんて、
あまりにもリアリティがない。
生まれそだったことばのアクセントをけし、
あらたに京ことばをマスターするのは
どれだけたいへんなことだろう。
それを「半年もあればやれる」と自信満々の先生に
わたしはぜんぜん共感できなかった。
しょせん、自分のおもしろさから、わかい女性の熱意を もてあそんだのではないか。

そうした反発をかんじながらも、
お茶屋の世界や京ことばの特殊性、
うたやおどりの稽古のようすときびしさ、
和服のきかたや、舞妓の髪のゆい方などはめずらしかった。
この作品をみなければ、わたしにはうかがいしれぬ世界だ。

お茶屋界のことばやたちふるまいをみていると、
自分がこれまでどう生きてきたのかを問われるような気がしてきた。
はっきり「ねえさん、おおきに」と、先輩ひとりひとりに声をかけ あたまをさげる。
挨拶ができないようではなにもはじまらないのだ。
自分とはちがう価値観のひとを、
わたしはとかく批判的にみやすいけど、
みんなそれぞれいろんな立場で生きているのだから、
ひとりの人間として敬意をはらわなくてはならない。
いまはほとんど自分と関係ないひとにおもえても、
これからどんなかかわりになるかわかならい。
挨拶をせずにやりすごすことは、そのひとだけでなく、
そのひとがすむ世界全般にたいして失礼なことなのだ。
相手からも、自分がまともな挨拶もできない人間とみられてはいけない。
どんなときも いろんなひとにみられているのであり、
それは芸妓であろうが、わたしのいまの生活であろうが、おなじことなのがわかった。
堂々とした挨拶であれば、それがどんなことば・方言であっても
きくひとのこころにとどく。

映画のあとで、携帯電話の営業所へたまたまいく用があった。
対応してくれたお店の女性は、
ちかい関係のひとからかかってきた電話をはさみ、
わたしにむきなおったときに出雲弁になっていた。
タメ口をきかれたわけではなく、ちゃんとした出雲弁だ。
わかい女性から出雲弁で仕事のはなしをされることはあまりなく、
すこしへんなかんじがしたけれど、
舞妓さんは京ことばでこれをやってるのだ、とあとから納得した。
ことばの力関係で、出雲弁はたいていネガティブな場所においやられている一方、
関西弁や京ことばは、りっぱな日本語として どこにだしても通用する。
京ことばと、それをとりまく世界にほこりをもつひとたちが、
これまでながらく まもってきたおかげだろう。

反発をかんじながらも、お茶屋の世界がもつ価値体系を
うつくしいとかんじずにおれなかった。
とくに富司純子さんのゆたかな表情は、
この世界でながく生きてきたひとにしかだせない うつくしさがあることを
みる側に気づかせてくれる。
あんなに魅力のある笑顔をみせる内面は、
どんなよろこびとかなしみにみちているのか。
エンディングのころには、ミュージカルであることに違和感がなくなり、
めでたしめでたしという気もちになれたのだから、
よくできた作品といえるだろう。

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posted by カルピス at 10:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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