2014年10月23日

いまだに「家事ハラスメント」が話題になる残念な日本

今朝の朝日新聞で「家事ハラスメント」をとりあげていた。
「家事を手伝う夫への妻のダメ出しを『妻の家事ハラ』と呼ぶ」
と旭化成ホームズが定義したところ、ネットで批判がひろがったという。

夫としては気をきかせて洗濯ものをほしたり、
お皿をあらったりしたつもりなのに、
それを妻からできていない部分について指摘されると、
夫のやる気がうせてしまい、それっきりになりやすい。
そういうこともあるだろうなー、とよんでいると、
わたしがおもっていたのとは、ぜんぜんちがっていた。
「家事ハラ」は夫へのダメだしではないのだという。
記事をよくよむと、

「『家事ハラ』はそもそも、和光大学教授の竹信三恵子さんが
著書『家事労働ハラスメント』(岩波新書)で、
家事を軽んじ、担い手を軽視することを問題にした言葉だ。
意味が全く違う。
竹信さんは抗議し、同社は謝罪した。
竹信さんは言う。『生を支える家事をなめるなと言いたい。
家事労働が再分配されなければ、女性は社会で働けない』」

梅棹忠夫さんは、家事をろんじるとき、
家族で分担してひとりひとりの負担をすくなくするのは あともどりだといい、
やらなくてもいい方向にむけるのがいちばん、
とかいている。
そのかんがえ方と、竹信さんの発言
「生を支える家事をなめるなと言いたい。
家事労働が再分配されなければ、女性は社会で働けない」
とは、いったいどちらがさきに発表されたものなのか。
梅棹さんが家事労働の方向性をしめしたのが
40年以上むかしのこととは、とてもおもえない。
いまだに「生を支える家事をなめるな」なんて発言がきかれるとは。

梅棹さんは「◯◯であるべき」「◯◯でなければならない」というかんがえ方はしない。
社会でおきているできごとを観察・分析し、
これからむかう道すじを予想する。
倫理的にのぞましいからそちらにむかうのではなく、
歴史的なながれとして、梅棹さんには それが必然としてみとおせる。
一般的な発想では、ふるくからつたわる伝統や文化、それにしつけなどとからめるし、
むかしからの価値観をひきずってしまうので、
家事をやらないほうがいい、とは、なかなかいえないものだ。
とにかく、歴史的な必然では、女性が家事に埋没されない社会がくるはずだった。

おおむね社会はその方向にうごいているとおもう。
しかし、今回のように「家事ハラ」とか「ダメだし」とかが
いまだに問題になっているようでは、
まだまだ社会全体の共通認識までに いたっていないのだろう。
「家事労働が再分配されなければ、女性は社会で働けない」
の「再分配」がなにを意味するのかわたしはしらない。
もし、家族で「再分配」するのであれば、
梅棹さんのかんがえからすると、ずいぶんうしろむきの発想である。
もちろんわるいのは いつまでも女性の家事労働にたよろうとする男であり、
それを前提になりたっている社会と会社ということになる。

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posted by カルピス at 21:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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