もちろんプレゼントは用意してあった。
1980年代のベスト(いわゆる歌謡曲)をあつめたCDと、
それだけではなんだかさみしい気がして、
なにか本でもと、『3時のアッコちゃん』(柚木麻子)をえらぶ。
彼女はそんなに本をよむほうではないけれど、
栄養士の仕事をしており、たべものをあつかうという意味では
まったくまとはずれとはいえないプレゼントだろう。
きょねんもたしかCDできりぬけたような気がする。
手わたすと「ありがとう」といってくれた。
いってくれたけど、それだけで、
はなしがひろがらないし、ふかまらない。
おたがいに プレゼントのやりとりが ふなれなままで、
いつまでたってもスマートにいかない。
なにかとてもすきなものがあるわけではなく、
配偶者へのプレゼントえらびにはいつもこまってしまう。
まあ、趣味のものばかりおくるのもどうかとおもうので、
なんとか相手がよろこびそうなものを いろいろかんがえるのが
プレゼントするときの基本となるこころがまえであり、
日ごろから相手のようすを気にかけていれば、
それらしいものが おのずと頭にうかんでくるはずなのだろう。
プレゼントというとおもいだすのが
『大草原の小さな家』シリーズにみる
クリスマスの朝がどんなにたのしみだったか、という場面だ
(ブログにも、もうなんどもかいた)。
インガルス一家はお金もちではないので、
お店でかった品物をプレゼントにするのではなく、
(よくおぼえていないけど)子どもだったら絵をかくとか、
お母さんだったらふるいセーターをほどいてつくった手袋とかを用意してのプレゼント交換で、
おくったほうも、おくられたほうもこころをあたたかくする。
お金がなければ知恵をしぼるしかないのだ。
もちろん大切なのは、相手のことをおもう気もちであり、
それがあればプレゼントはステキにみえるる。
はずれのプレゼントでは、気もちがないことが
すぐにみやぶられてしまうからこわい。
むすこがかよっていた保育園は、
保護者が手づくりしたプレゼントをクリスマス会のときに
サンタさんが子どもたちにわたす、というとりきめがあった。
かったものではだめで、かならず手づくりしなければならない。
なにがわたされるか、子どもたちには秘密にしてあり、
本番のクリスマス会でサンタさんにわたされるときは、
期待と心配で緊張の一瞬だ。
1枚だけピントはずれの写真がのこっており、
そこにうつっているむすこの、胸をときめかせた表情がとてもいい。
目がむこうの世界へとんでいる。あんな顔はおとなにはまずできない。
ぼやけているけど、保育園時代ではいちばんすきな写真だ。
保育園もうえのクラスにすすむころは プレゼントのネタがつきてくる。
なににしたらいいか、木工が得意な職場の上司に相談すると、
丸太をつかったトナカイを提案してくれた。
直径30センチ、ながさ50センチくらいの丸太にドリルで穴をあけ、
足や首になる枝をつっこむと、
わりとかんたんに、存在感のあるトナカイができあがる。
その年におくられたなかで、いちばんおおきなプレゼントとなり、
ほかの子たちがうらやましがるし、またがってあそぶこともできたので、
むすこはすごくよろこんでくれた。
おどろきがあり、実用にもなる。
プレゼントは、かくあるべきである、というお手本のような作品だった。
うまくはまったときのプレゼントは、たしかにおくるほうにとっても
たのしいものだ。
わたしの誕生日はどうかというと、
配偶者はきまってTシャツと半袖シャツを1枚ずつプレゼントしてくれる。
実用的ではあるけれど、サプライズはない。
おたがい歳相応の、かれたプレゼントにおちついてきた。
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