西加奈子さんの小説をよむのは、この本がはじめてだ。
『おすすめ文庫王国』のエンタメ部門で 2番目にあげられている。
西加奈子さんのなげる直球にしびれてしまった。
これからいいおつきあいをさせてもらえそうだ。
肉子ちゃんは、北陸のちいさな漁港にある焼肉屋さんではたらいている。
みかけでいうと、『めぞん一刻』にでていた一の瀬さんみたいなからだつきだ。
でも、性格はまるでちがう。単純で、げんきいっぱいで、なみだもろい。
38歳になる肉子ちゃんは、5年生のむすめ「キクリん」といっしょに
お店のはなれでくらしている。
ほんとの名前は菊子だけど、すごくふとっているから「肉子ちゃん」。
この本は、肉子ちゃんの純粋さが世界をかえるはなしだ。
肉子ちゃんのことを、どういいあらわしたらいいだろう。
いつも大声で大阪弁をはなし
(「◯◯やでっ!」と語尾にやたらとちからがはいる)、
やたらと漢字を分解して
「心に酉に己、と書いて心配と読むのやから!」
なんてあまり意味がないことを しょっちゅういっている。
こまかなことには気がまわらず、服装にも無頓着だ。
ひとのいい面ばかりをみるので、なんども男にだまされてきた。
アホみたい、と自分でもいうし、単純さにまわりのひとがあきれているけど、
ずるがしこいことは絶対にしない。
いつもまっすぐなひとで、まわりをあかるくし、
たいていのひとからかわいがられる。
男にだまされても、相手のことをこころの底からわるくおもったりできない。
ひとでも動物でも、まっすぐに相手のふところにはいっていく。
ただし、ぜんぜんかっこよくない。
キクリんにいわせると、「一番大きなマトリョーシカみたい」だ。
むすめのキクりんは、かわいくて、ほっそりしていて、
肉子ちゃんとはぜんぜんにてない。
本がすきで、5年生なのに
いまはサリンジャーの『フラニーとゾーイー』をよんでいる。
肉子ちゃんは、本なんかとはまったく縁のないひとなので、
「キクリん、何読んでるん?」
「サリンジャー」
「サリンジャーっ!なんとか戦隊の名前みたいやなっ!」
なんていったりする。
キクリんには、いろんなひとや動物の声がきこえる。
水族館にいるペンギンのカンコちゃんは、クエーッとなく。
キクリんには、「皆殺しの日ぃー!」と、さけんでいるようにきこえる。
セミがなくのは、
「長らく待ったけど こんなもんです!」ときこえる。
肉子ちゃんのとなりにいるから、
しっかりものにみえるけど、
キクリんもそうとうへんだ。
へんでもしかたない、へんでもいいんだ、とう本でもある。
肉子ちゃんはすばらしいひとではあるけれど、
肉子ちゃんといっしょにいることで、
キクリんは、5年生の女の子がかかえなくてもいいような荷物をせおっている。
肉子ちゃんのしんじられないような純粋さは、
まわりの人間をすくいもするけれど、
それとはひきかえに、キクリんにしっかりしたひとであることをもとめたりもする
(もちろん肉子ちゃんにそんな自覚はない)。
それでもなお、肉子ちゃんが相手にむけるふかい信頼感は、
キクリんを上等な人間にそだてた。
本をよんでいて、だんだんと肉子ちゃんにひかれるのは、
彼女のように損得なしでよりそったり なかなかできないからだ。
だから肉子ちゃんは男にだまされるし、
男にだまされた女をすくうこともできる。
肉子ちゃんのためにも、
キクリんがいい子にそだってほんとうによかった。
この本は、西加奈子さんにとっても
おもいいれのつよい作品であるという。
石巻の漁港がモデルで、雑誌に連載していたとき、地震がおきた。
西加奈子が想像してつくりあげた肉子ちゃんみたいなひとが、
ほんとうに石巻の焼肉屋さんのおかみさんとして はたらいていたという。
そして、その方は震災でなくなってしまった。
「言葉にすると絶対におこがましく、
そしてドラマティックになってしまうことを覚悟して書きます。
私にとって、小説を書くということは、
世界中にいる、『肉子ちゃん』を書くことです」
西加奈子さんは直球で勝負してくる。
テクニックでかわそうなんておもってない。
器用さはないかもしれないが、
これからすごい球をなげてきそうだ。
世界中にいる肉子ちゃんとであったとき、
わたしは彼女がどれだけおおきなひとかに気づくだろうか。
肉子ちゃんのすばらしさを理解できる人間でありたい。
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