2015年03月11日

吉行淳之介さんが「きゃっとさけんでろくろ首になる」とたとえた不意にやってくるはずかしい記憶

「村上さんのところ」によせられる相談で、
わかいころの失敗がおもいだされ
はずかしくてならない、みたいなのをときどきみかける。
それにたいする村上さんの回答はそれぞれで、
たしかにケースバイケースにかんがえるしかないのだけど、
基本的にこの手の記憶はどうしようもない。
おこってしまったことはけせないし、
やりなおせるわけでもない。
だからこそ、うまくやりすごすやり方を
いろんなひとが村上さんにたずねたくなるのだろう。
だれもがやってることなのに、
自分のふるまいは、とりわけひどいあやまちとしておもいだされてしまう。

こういう相談をよむと、
吉行淳之介さんがエッセイにかかれていた
「きゃっとさけんでろくろ首になる」をおもいだす。
ずいぶんまえによんだ本なので、うろおぼえだけど、
不意におとずれる おろかなふるまいの記憶を、
吉行さんは「きゃっとさけんでろくろ首になる」と表現したのだ。
吉行さんのことだから、おそらく女性がらみの失敗だ。
あの吉行さんにして、そうしたおもいでがあるというのは意外だけど、
そうしたときの心情を「きゃっとさけんでろくろ首になる」とは
うまくあらわしたものだと感心する。
まったく、首がかってにながくなっていくような、逆上したくなる気分だ。
「ろくろ首」になったときの対応までかかれていたかはおぼえていない。
人生の達人としてしられる吉行さんの奥ゆきのある人格は、
「ろくろ首」級の失敗にまなび、きたえられた たまものなのかもしれない。

もちろんわたしにもはずかしい失態がすくなからずあり、
だれにもしられたくないし、もちろんいいたくもない。
ときどきその残念な記憶がよみがえって、いまだに「ろくろ首」となる。
そうした おもわず大声でさけびたくなるようなあやまちは、
わかいころにかぎられるようで、
年をとるにつれて成長するというか、みのほどをしるというか、
「ろくろ首」にならずにはおれない ひどい失態はしなくなった。

冒頭でもかいたように、
「ろくろ首」には効果的な対応がなく、
基本的には時間がつらさをうすめてくれるまで、まつしかない。
しかし、こうした相談がおおいことからもわかるように、
いつまでたっても、ときどき不意におもいだされ、
「ろくろ首」のおもいをするのがおそろしいところで、
おそらくゼロにはならない。
そうやって、ひどい記憶につよくいましめられるので、
ひとはなんやかやとまなんでいくのだろう。

「ろくろ首」にはならないけど、
この時期に自分のふがいなさをおもいしるのは、
震災への支援がぜんぜんできなかったことだ。
職場としても個人でも、今年はどちらもうごけなかった。
目標にかかげながら かたちにならなかったのだから いいわけのしようがなく、
自己嫌悪にじわじわとうちのめされる。
得意のひらきなおりも、こればっかりは
ますますキズをふかくするし、
ふとんをかぶってやりすごそうとしても、
ダメ人間の烙印がそこらじゅうにおされるばかりだ。
こういうときのはずかしさは、どんなたとえをしたら気がらくになるのだろう。

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posted by カルピス at 21:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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