2015年06月21日

カーテンをあらう頻度の問題

台所のカーテンをあらう。
いっしょにくらしている母が、
もうふるいからカーテンをあたらしくしようと
しきりに口にする。
かいにいくのはめんどくさいものの、
よくみると、たしかにずいぶんよごれている。
けさ、きゅうに洗濯することをおもいついた。
きれいになれば、かわないですむかもしれない。

カーテンをあらうといえば、『ノルウェイの森』にでてきた「突撃隊」だ。
わたしも「ワタナベくん」とおなじように、
それまでカーテンはあらうものという発想がなかった。
いちどレールにぶらさげたら、あとはずっと「カーテン」でいてくれるのが
わたしにとってのカーテンだった。

カーテンとはなにか。
スカーレット=オハラはこれであたらしい服をつくったし、
シーナマコトは厳冬のロシアの空港待合室で、
カーテンにくるまりさむさをしのいだ。
江分利満氏には、いちばんかんたんなカーテンとして、
シーツを洗濯バサミで窓のところにつるしたら、
「なんでシーツをほしているの?」と
たずねられた残念なはなしがのっている。
この質問は、カーテンの特性をよくあらわしている。
ほんとうは、カーテンじたい、とても洗濯と相性がいい。
もともとほしてある状態なのだから、
梅雨に洗濯したとして、すこしぐらいなまがわきでも
そのままカーテンレールにもどしてしまえばすむ。
でありながら、あまり洗濯されないのは
毎日おなじところにつるされており、
すこしずつよごれていくので、いつ洗濯するのかをきめきれないからだ。
シーツなんかだと、もうこれは洗濯しなければどうにもならないという
みきわめがかんたんにつく。

けっきょく日本人は、ほんとうの意味で 生活にカーテンをとりこんでいないのかもしれない。
日本住宅には障子がつかわれていることがおおく、
障子があれば、ふつうカーテンはつけない。
ふるいタイプの日本人にとって、カーテンはなじみのうすい装飾品だ。
そうした意識の親世代にそだてられた子どもたちにも、
いまだにカーテンはよそよそしい存在にすぎない。
月にいちど、とか、ころもがえのころにあらうとかの、
はっきりした洗濯プランにくみこまれていない。
カーテンをあらう頻度の調査がないものだろうか。

あらいおえたカーテンは、
劇的には生まれかわらなかったけど、
あらってよかったとおもえるほどにはきれいになった。
「突撃隊」は、ひんぱんにカーテンをあらうほど几帳面すぎたため、
精神をやんだようによめる。
数年にいちどの洗濯ぐらいでお茶をにごしておくのが
カーテンとの健全なつきあいかたかもしれない。

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posted by カルピス at 16:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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