と宮ア駿さんがはなしていた。
もともとはサン=テグジュペリのことばらしい。
世の中には、効率ではかれないことがたくさんある。
無駄かもしれない、というより、無駄にきまっていることをするとき、
わたしはこのことばをいつもおもいだす。
無駄としりつつ、やらずにはおれないのが愛情なのだ。
家族への愛情は、その最たるものだろう。
家族関係は、損得をかんがえて成立しているわけではない。
子どもとむきあうときは、
役にたつとか、効率的かどうかとは、
まったくちがう原理でわたしたちはうごく。
料理でも、子どもの顔をおもいうかべ、
ひとてまかけたくなるのが愛情なのだろうし、
夜中にふとんをはねのけてないか、
子どものようすをうかがうのも、
やらなくてもいいけど、やりたくなるのは愛情があるからだ。
家族には、もちろんネコもふくまれる。
わたしはピピがごはんをたべてるとき、
中身がかたよって たべにくくならないように
ずっとそばについていて、お皿を回転させる。
トイレでも、フンをしたらすぐにとりのぞいて、
ピピの足がよごれないように気をくばる。
もちろんそんなことしなくたって
ピピの健康にかわりはない。
わたしがかってにこだわってるだけのような気もするけど、
これもきっと愛情ゆえのよけいなお世話なのだろう。
ピピはごはんをたべ、水をのんだあと、
「フー、やれやれ」みたいなかんじでベッドにあがり、
まえをみたまま なにやら背中でうったえている。
なでたりスリスリしたり、ぬれた毛をタオルでふいたり、
そういったもろもろのサービスをもとめている おしゃべりな背中だ。
ごはんのあとの、おきまりのながれなので、
わたしはピピをなで、スリスリをしてからタオルでふいて、
じょうずにごはんをたべたねと ほめちぎる。
これは、もとめられたことをしたまでなので、
サン=テグジュペリのいう愛情とはちがいそうだけど、
無駄という意味からは かなりふかいところまで条件をみたしている。
ピピのすきなカンヅメがお店にないとき、
そこにあるカンヅメでピピにがまんしてもらおうとするのが
合理的な精神にもとづく契約関係で、
べつの店をまわっても、なんとかみつけようとするのが愛情だ。
恋愛でも相手のうごきから愛情をよみとれるだろうか。
よく無理難題をつきつけて、相手をこまらせるひとがいるけれど、
きっとそうやって愛情の有無と量をたしかめているのだろう。
そのひとが、どれだけ無駄なエネルギーを自分にかたむけてくれるのかだから、
けっこうわかりやすそうでいて、あんがいビミョーなところがある。
無駄=なんでもいうことをきいてくるることではないし、
気をつけないとおもいがけないちから関係をうみだしたりする。
『ノルウェイの森』には、イチゴのショートケーキのはなしがのっている。
「たとえば今私があなたに向かって苺のショート・ケーキが食べたいって言うわね、するとあなたは何もかも放りだして走ってそれを買いに行くのよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて『はいミドリ、イチゴのショート・ケーキだよ』ってさしだすでしょ、すると私は『ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃたわよ』って言ってそれを窓からぽいと放り投げるの。私が求めているのはそういうものなの」
そうしてもらったぶん、きちんと相手を愛すると緑はいう。
女性がいうと、ほんとらしくきこえるけど、
もしおなじようなことを男がいえば、
ゴーマンでうすっぺらな人間としかおもえない。
きっと男は愛情をあたえることはあっても、
もとめるのになれていないのだ。
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