高等遊民の代助が、友人の妻である三千代に
自分の気もちをつたえた。
以前から結婚をせついていた実家の父親にも、
すすめられている縁談をことわる。
父親は、あきれてかってにしろとなげだし、
もうおまえの面倒はみないといわれる。
三千代の夫、代助が中学のころからしたしくしている平岡にも
三千代へのおもいをはなす。
代助は理屈のひとだ。
自分がまちがっているとわかっていても、
論理的に整合性がとれていれば
父親や平岡をまえにしてもたじろかないで
自分のかんがえをつたえられる。
論理的であるとともに、自分の感情に素直でもある。
つかれていたり、めんどくさかったりすると、
論理よりも感情を優先させたりする。
高等遊民として、仕事をせずに文化的な生活をおくっていた代助も、
家からの援助をあてにできなくなる。
これから彼はどうやってくらすのだろう。
そこそこの知識人なので、
はたらく気になればいくらでも仕事はありそうだけど、
問題は代助みたいに理屈をこねる人間が、
ほかのひとといっしょに はたらけるかどうかだ。
ピッタリの仕事にめぐりあわなければ、
テキトーにわりきってはたらけないだろう。
自分のことのように、代助のこれからが気にかかる。
朝日新聞に これまで再連載された漱石の3作、
『こころ』『三四郎』そして『これから』には、
どれも代助のような高等遊民がでてくる。
そのなかでわたしは『それから』をいちばんおもしろくよんだ。
代助は高等遊民として、家からの援助でくらしている状況を、
強力に論理武装しながら、かんぜんにひらきなおっている。
しかし、三千代へのおもいみたいに、
自分の方針をつらぬこうとしたとき、
実家からもう面倒をみない、といわれると、
非常によわい立場であることも自覚している。
しかたがないとあきらめた代助が、
ふつうの社会人になれるだろうか。
それにしても、明治時代というはるかむかし、
すでにこのような人物がうまれていたのがおもしろい。
「すでに」とおもうのがそもそもまちがいかもしれない。
いまのほうがむかしよりすすんでいると、
無意識のうちにきめてかかっている。
あんがいむかしのほうが、高等遊民のような生き方は
あたりまえにうけいれられていたかもしれない。
連載108回目のきのうは、
106年まえの『それから』(108回目)とおなじ日の広告がのっていた。
サッポロビール・エビスビール・サッポロ黒ビールのもので、
たとえばエビスビールには「品質外国品に優る」とかいてある。
106年もむかしに、これらのビールがすでにのまれていたのだ。
代助みたいな人種の存在や サッポロビールの商品名など、
106年たっても あんがい身のまわりにあるものは かわらないのかも。
106年のあいだに、発泡酒や第3のビールなど、
ビール類がややこしい状況になり、
それがまたひとつの税額に統一されることになる。
ものごとはかわるようでかわらない、
けど、そのなかでいろんな変化があるという、
典型的な例なのかもしれない。
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