2015年11月27日

『稲作の起源』(池橋宏)水田稲作は、イモ類の株わけからはじまった

『稲作の起源』(池橋宏・講談社選書メチエ)

田うえをしないで、田んぼにそのまま種をまく米づくりをしてみると、
わざわざ苗をそだて、移植するめんどくさい方法が
なぜ一般的になったのか 不思議におもえてくる。
さらにいえば、土をたがやすにしても、
いつから必要な作業となったのだろう。
それらの、あたりまえとおもっている仕事でさえ、
そもそものスタートはあんがいはっきりしていない。
どんななりゆきから
いまのような形に ひろまったのかをかんがえるとたのしい。

1966年に、中尾佐助氏が照葉樹林文化論を提唱した。
ヒマラヤから日本にかけてひろがる
照葉樹林帯には共通の文化があり、
それが日本文化の源流ともなっているという。
宮ア駿さんの影響もあって、
わたしはこの説につよくひきつけられた。
稲作のルーツも、この照葉樹林文化がカギをにぎっているようだ。

本書はしかし、照葉樹林文化による稲作に
疑問をなげかけたものだ。
照葉樹林文化論にいかれているわたしにとって、
あまりたのしい読書ではなかったけれど、
稲作の起源について、耳をかたむけるに値する
説得力のある筋道がしめされている。

照葉樹林文化による稲作は、雑穀農耕の影響をうけ、
焼畑での陸稲からはじまったといわれていた。
とうぜん移植ではなく、タネを直接まく直播栽培で、
それがだんだんと棚田へとうつったというものだ。
しかし池橋氏によると、
焼畑での直播栽培から水田での移植栽培に移行したとは
かんがえにくいという。
水田による稲作はきわめて特殊な農法であり、
焼畑で陸稲をつくっていたのに、
あるときからとつぜん水田にうつるのは、
関連性がないので たしかに不自然だ。
この本でしめされているのは、
根栽農耕として、湿地で里芋などをつくるうちに、
その株わけの技術が稲作にもいかされた、という展開だ。
これだとたしかに
「水田や苗代の起源も無理なく説明できる」。
イネの苗をそだて、それを移植する 栽培法の起源が、
イモの栽培にあったというのはおもしろいかんがえ方だ。

池橋氏は、雑草や発芽のコントロールがむつかしい点も、
直播栽培が稲作のルーツではない根拠としてあげている。
イネの直播栽培は(中略)現在の農業者にとってもむずかしい。原始時代の農耕の担い手は、育児も分担する婦人であったと想像されている。とすると草取りに多くの手間をかけることができただろうかという疑問が残る。(p43)

稲作の現実を見ない人たちは、直播きは、苗代や田植えを必要としないだけより原始的と考える傾向があるのか、古代で直播きが行われていたかのように述べている。しかし現代人でもむずかしい直播きが、古代の人に簡単に出来るわけはない。(p222)

「簡単に出来るわけはない」と
きめつけられると反発したくなる。
直播栽培をこころみたわたしの感想では、
水をためて雑草をおさえれば、
草とりは それほどたいへんとはいえない。
池橋氏の論理は、ときとしてこのように
自分の体験を主張しすぎるところがあり、
よんでいてすべてがすっきりしたわけではない。
あくまでもひとつの仮説としてうけとめ、
照葉樹林文化論側からの反論をしりたい。

ちょうど縄文時代の農耕について
はっきりしたイメージをもちたいとおもったところなので、
本書はあたらしい指摘による 刺激的な読書となった。
池橋氏は、稲作と日本の関係では、
水田稲作という はじめから完成された形で
日本にもちこまれたとかんがえている。
渡来民によって稲作が日本に紹介され、
画期的な生産量が 弥生時代への変革をもたらしたという。
縄文時代には農耕がひろまらなかったというよりも、
農耕がひろまるまでが 縄文時代というとらえ方だ。
水田稲作は、それだけいっきに生産力をたかめた。
すこしずつではなく、いっきに、というところが
水田稲作として完成された姿で日本にはいった説明にもなる。
池橋氏の提唱をきっかけに、
「稲作の起源」論がふかまるよう ねがっている。

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posted by カルピス at 20:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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