新聞は死亡欄しかみない、というはなしになった。
個人事業をいとなんでいる そのしりあいは、
おくやみをかかしたことから 非難された体験があり、
お客さんの家で なくなったひとがいないかの
チェックをかかさなくなったそうだ。
じっさい 図書館で しりあいが新聞の束をかかえ、
テーブルにすわっているのをみた。
個人事業というのも なかなかたいへんだ。
しりあいからそんなはなしをきいてからは、
わたしもまた死亡欄が気になってきて、
このごろはよく目をとおすようになった。
死亡欄(朝日新聞では「悲しみ」)には
平均寿命にちかい数字がみごとにならび、
みんな ながいきしてるなーと 感心させられるけど、
ときにはたらきざかりの年齢だったり、
まだわかい方がこの欄にのっていたりもして、
本人の無念さと、家族のかなしみにふれる気がする。
島根版の死亡欄をみてると、
松江市よりも人口がすくないのに、
なくなった方の人数が だいたいいつも
松江市よりもおおい市がある。
老人がおおくすんでいる以外に、
なにか理由があるのかしりたいところだ。
半分の人口なのに、なくなるひとの数がおおいのは
ただごとではない。
死亡欄は、氏名と年齢、それに住所だけの一覧ながら、
行間にはおおくのものがたりがみえかくれしている。
わたしのしりあいも、チェックだけでなく
一覧から そうした情報をかぎとっているのだろうか。
死亡欄マニア、みたいなひともいそうな気がする。
死亡欄にしか 新聞の価値をおかないしりあいは、
新聞をよまなくても まったくこまらないそうだ。
ニュースはネットをみればわかるし、
よみものとしての記事にも興味はないという。
そういえばわたしも、新聞のニュースはほとんどよまない。
今朝の朝刊をにぎわしているイギリスのEU離脱も
たいして切実にはかんじない。
トップをかざるようなニュースよりも、
文化欄だったり本の紹介だったり、
すきな作家のかくエッセイだったりが
新聞をよむたのしみの大部分だ。
連載ちゅうの『吾輩は猫である』が
だんだんおもしろくなってきた。
新聞のよみ方はいろいろだ。
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