(スティーブン=スピルバーグ監督・1993年・アメリカ)
せんじつよみおえた『シンドラーのリスト』の映画版をみる。
とてもじょうずにつくってあり、本のイメージが
そのまま映像となっているのにおどろかされる。
主演のリーアム=ニーソンは、
まさしくオスカー=シンドラー氏だ。
原作についてかいたブログでは、
なぜシンドラーが膨大なお金と労力をかけて
ユダヤ人をすくおうとしたのかの説明はない、と
くりかえし強調した。
映画では ここのところがうまくつたわるようにつくってある。
ユダヤ人のゲットー(ユダヤ人居住区)に
ナチスの部隊が突然なだれこみ、
無抵抗のユダヤ人をつぎつぎにうちころす。
シンドラーは、丘のうえからこの光景を目にやきつける。
ナチスへのいかりがかきたてられ、
ユダヤ人の側にたとうときめた場面だ。
とはいえ、シンドラーは金もうけのため、
ビジネスとして、ユダヤ人をやとい
軍需工場を経営しているというたてまえをくずさない。
ユダヤ人ひとりを工員としてやとうと、
いちにちに7マルクをナチスにしはらうきまりがあり、
それでもドイツ人をやとうより はるかにやすいので、
ビジネスとしては たしかに「あり」なのだ。
日本でも、第二次大戦のときに
軍とじょうずにつきあって、
戦争成金として富をえたひとがいる。
シンドラーは、そうしてかせいだ巨額の金を、
すべてユダヤ人をすくうためにつかった。
シンドラーが自宅で愛人とすごしているときに、
彼の妻が故郷の町からたずねてきた場面がおかしかった。
シンドラーはまったくあわてない。
おおいそぎで身じたくしている愛人のようすを
あろうことか妻にしめし、
「あわててる」と おかしそうに同意をもとめる。
そのうえに「(愛人である女性は)君と気があうよ」とまでいうのだ。
もしわたしがそんな場面をむかえたら、
シンドラー氏をみならいたい。
でどころを説明すれば、修羅場にならないはずだ。
ある場面で雪がふりはじめ、
シンドラーが愛車のメルセデスのグリルをなでると、
黒い灰が雪にまじっていた。
この灰こそが、ユダヤ人をやいたときにでたもので、
そのとき強制収容所では、
いぜんころしてそこらじゅうにうめたユダヤ人の死体を、
またほりおこしてもやしていた。
戦争にまけるのがみえてきて、
ソ連軍が収容所を開放したときに、
死体がみつからないための処置だ。
わたしはふだん映画をみながら酒はのまないけど、
この作品だけは やたらとコニャックやウォッカをあおる
シンドラーをみならって、酒にたよった。
こころをとざさなければ、
とてもみていられない場面がいくつもある。
シンドラーの経営する工場にいくはずのユダヤ人女性たちが、
手ちがいでアウシュビッツへおくられてしまった。
女性たちは髪の毛をはさみできられ、
服をぬがされて、殺菌室へおしこめられる。
シャワーからでてきたのは、さいわいつめたい水だった。
ひえきったからだに水のシャワーをあびながら、
彼女たちがよろこびの声をあげたのは、
もちろんシャワーからでたのが 毒ガスでなかったからだ。
アウシュビッツでは、ユダヤ人のいのちが
ほんのささいな偶然にもてあそばれ、
なにが原因で どっちへかたむくかわからない。
ただ、家畜用の列車におしこめられ、
糞尿にまみれての「旅」については
リアルな描写がさけられている。
映画のラストでは、私設の収容所をさるシンドラーが
ユダヤ人たちから金の指輪をプレゼントされる。
ユダヤ人にとってふかい意味のある宗教的な指輪だ。
シンドラーはとつぜん「もっとすくえた!」と
なきくずれる。
自分はできるかぎりの労力をはらったわけではなく、
本気でことにあたれば
もっとたくさんのユダヤ人をすくえたという後悔だ。
原作でのシンドラーは、
もっとおさえた感謝の意をしめしており、
その解釈のほうがシンドラー氏のこころのうちを
より正確にあらわしているとおもう。
「もっとすくえた!」は、
シンドラー氏のセリフとして唐突すぎる。
このさいごの場面をのぞいては、
ひじょうによくできた作品であり、
このような人間がいた事実をつたえる
貴重な記録となっている。
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