すきなシーンだらけのこの作品は、
わたしのオールタイム・ベストだ。
八百長試合なのに かってしまったブッチが
会場ちかくにとまっていたタクシーにのりこむと、
女性の運転手(エスメラルダ)がいろいろたずねてくる。
汗まみれのボクサーを車にのせても
ぜんぜんビビらずに、独特の雰囲気をだしている。
彼女みたいに自分の世界を車にもちこめるのなら、
タクシーの運転手もわるくないとおもいながらこの場面をみる。
そうおもわせるだけのリアリティがすばらしいのか、
わたしが影響をうけやすいだけなのか。
日本のタクシー運転手は、制服をきているせいか、
いかにも仕事ちゅう、というかんじだけど、
外国映画にでてくるタクシーの運転手は普段着のままだ。
気らくな仕事におもえ、わたしもやってみたいとおもう。
この作品にかぎらず、わたしはタクシーの運転手に
無意識のあこがれがあるのかもしれない。
ジム=ジャームッシュ監督の『ナイト・オン・ザ・プラネット』は、
全編がタクシーの運転手と客とのやりとりだ。
ロサンゼルスでは、ウィノナ=ライダーがキュートだった。
映画関係者である客が、運転手のウィノナ=ライダーに
映画にでてみないかとさそうのだけど、
ちょっとかんがえたあとで、ウィノナ=ライダーはことわってしまう。
自分の夢をかなえるためには、
ここで女優をめざすわけにはいかないと、
きっぱりとことわる彼女がすてきだ。
パリでは目のみえない女性をベアトリス=ダルがえんじている。
目がみえないのだから、運転手ではなく、もちろん客の役だ。
運転手が気のどくがってお金をすくなくうけとろうとしても、
そんな同情はうけつけない。
自立したおとなでありたいと、この場面をみるとおもう。
ローマでは、ロベルト=ベニーニが調子のいい運転手としてでてくる。
このひとは、ぜんぜん仕事のことをかんがえてない、
というのがすぐにわかるテキトーな運転ぶりだ。
お客の神父さんにむかって、ただもう世間ばなしを延々とつづける。
これもまた、気らくな商売のようで、わたしむきにおもえる。
映画にでてくるタクシー運転手は、
ほとんど仕事をしているかんじがしない。
会社の車というよりも、自分の車にお客をのせているようにみえる。
もちろん会社の方針はいろいろあるだろうけど、
彼らはひとのいうことなどききそうにない。
きかなくてもいいからタクシーの運転手をえらんだのではないか。
てっとりばやくお金をかせげる仕事として
だれでもはじめやすいのだろう。
タクシーの運転手がでてくる作品といえば
『タクシー・ドライバー』だ。
だれにも干渉されない仕事として
ロバート=デ=ニーロはタクシー運転手の職をえる。
この作品でのデ=ニーロは、タクシーの運転手くらしか
つとまる仕事がなかったのではないか。
それほど孤独で生きづまった雰囲気がたちこめており、
自由で気らくな仕事としてのタクシードライバーにはみえない。
日本映画では『月はどっちに出ている』に
タクシー会社がでてくる。
こちらは日本が舞台だけに 自由さよりも
会社に就職するしがらみのほうがつよい。
こんな仕事をやってみたいとは、この作品をみても おもわない。
このごろは自動運転の車が急速に発展してきており、
あと数年で実用になりそうだ。
山あいの不便な地域では、老人の足として
どうしても車が必要だけど、
わたしが運転手をしなくても、
自動運転の車が配置されていくだろう。
アメリカではスマホのアプリとして
タクシーにかわるサービスが発達しているそうで、
運転手はますます自由にお客を自分の車にのせている。
わたしもウーバーをはじめたいとおもうぐらい、
彼らはたのしく運転しているだろうか。
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