なにかにつけて かんじるようになった。
中年となり、健康に自信をもてなくなったのがおおきい。
すこし調子をくずしただけで、
死ぬときはあんがいこんなふうに
おもってもいなかった角度から悪魔のつかいがやってきて、
かんたんにズルズルとむこうの世界へおちていくのだと
「おわり」をリアルにイメージできる。
あるいは、きゅうにアクシデントがおとずれたら
(ころぶとか脳梗塞とか心臓発作とか)、
もう家にかえってこれないんだ、みたいなことが
ふと頭にうかんでくる。
わかいころは、そんなことかんがえもしなかった。
職場の上司とはなしていたら、
なんだかこのごろうごきがおぼつかなくなった、といわれる。
わかいひとがいるまえでは 話題にあげにくくても、
55歳のわたしが相手だと 老化をはなしやすいらしく、
よくふたりで おたがいの変化を報告しあう。
上司によると、4月になってから自転車でころんだり、
家でもなにかにつまずきやすいそうだ。
おたがいに、記憶力のおとろえも よく話題にするけど、
からだのふらつきもまた、ひとごとではないリアルさがある。
60歳の上司は、わたしより5年はやく 老化を体験しているわけで、
55歳のいまでさえ、もうじゅうぶん
おそろしい予告編をみせられている気がするのに、
これからさらに 老化の本編がまっているのかとおもうと
ほんとうにおそろしい。
老人になるのはだれもがはじめてだから、
もっといたわってね、みたいなはなしをきいたことがある。
たしかに、老化について知識や覚悟をもっているつもりだったけど、
自分が老人の側にちかづくと、はなしはきわめて具体的になる。
いつかむかえる「老い」は、だれにとってもはじめての体験なので、
わからないことがおおい。
こんなはずではなかった、がわたしの実感だ。
歳をとって いいことのひとつは、なにかに失敗しても、
まあ そんなにさきはながくないからと、
深刻にうけとめず、かるくながせるようになった。
こんな失敗は、このさきそんなにやってこないだろうし、
やってきたところで 浮世はそうながくつづかないのだから、
生きてるあいだだけの 些細なできごとにすぎない。
もしわたしがながいきしたら、
自分のしりあいたちは、 どんな「おわり」をむかえたかをしりたい。
げんきだったあのひとが、オムツをつけるようになった、とか、
まさかあのひとがボケるとは、なんて
自分の心配は棚にあげといて、ひとのおわり方に興味がある。
ひとりでいきていたあのひとが、
理想的なさいごをむかえたり、
にぎやかに大家族でくらしていたあいつが、
さみしいおわりをむかえたりして。
わたしの「おわり」は?
愛するひとに手をにぎってもらいながら
むこうの世界へいきたいとねがう。
だれもそうしてくれるひとがいなければ、
ふかい森にはいり、うつろうつろしながら
さいごのひとときをむかえたい。
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