「スポーツ嫌いな子、だめですか」
という記事がのっていた。
スポーツ庁が、運動やスポーツのきらいな中学生について、
半減させる目標をうちだしたことへの反応だ。
(スポーツ庁の調査によると)運動やスポーツが「嫌い」か「やや嫌い」な中学生は16・4%。微増傾向にある。このままでは将来、運動しない大人が増えてしまうと、同庁は3月、5年かけて8%に半減させる目標を「スポーツ基本計画」の中で打ち出した。
「スポーツ嫌いな子、だめですか」には、
きらいなままじゃだめですか、の意味がふくまれている。
計画が報じられると、「強制しないでほしい」「余計嫌いになる」「嫌いで何が悪い」などの意見がネット上で飛び交った。
タイトルも刺激的だけど、
わたしがこの記事に目をとめたのは、
ヒャダインさんの名前をみかけたからだ。
ヒャダインさんは、テレビ番組「久保みねヒャダこじらせナイト」で
体育へのうらみ・つらみをとりあげているらしい。
わたしは、「強制しないでほしい」と反発するよりも、
体育へのうらみ・つらみから、
スポーツをきらいにさせない教育が大切だとおもう。
ヒャダインさんによると、
体育が嫌なのは恥をかかされるから。周りに迷惑をかけている申し訳なさ、馬鹿にされているんだろうなという自虐。ネガティブな感情ばかりが渦巻くんです。
学校での体育は、できる子がたのしいおもいをするいっぽうで、
ヒャダインさんがいうように、できない子、にがてな子は
はずかしかったり、かなしいおもいをする つらい時間だ。
できない子、にがてな子を、
できるようにする過程が体育の授業だとおもうけど、
適切なノウハウをもった先生はかぎられている。
運動がきらいな中学生をへらすというよりも、
運動をきらいにさせないことが大切だ。
体育の授業が、できる子をもてはやす時間ではなく、
できない子をできるようする
本来のすがたをとりもどせば、
子どもたちは運動がきらいにならない。
小学校の低学年では ほとんどの子が体育をすきなのに、
成長するにつれてきらいになるのは、
できない子がつらいおもいをするからだ。
この記事は、いろいろな要素をいっしょくたにして
話題づくりをねらった印象をうける。
「スポーツ嫌いな子」がだめなのではなく、
スポーツをきらいにさせた学校体育に問題がある。
中村敏雄氏の『近代スポーツ批判』には
うまくない人には、そうなってしまった不幸な歴史があったのである。それを笑ったり、けなしたりすることは、人間的な行為とはいえないし、そうしていることが、うまくない人の自由を圧迫していることになる、ということにも思い至るべきであろう。とかかれている。
この本がだされたのは1977年であり、
それから40年たっても状況はあまりかわっていない。
スポーツが得意なひとは、
ほっておいても自分でかってにからだをうごかす。
大切なのは、スポーツをきらいにさせない教育であり、
学校体育がはたすやくわりはおおきい。
スポーツはできるひとだけのものではなく、
だれにもスポーツをたのしむ権利がある。
スポーツがうまくないひとの
「不幸な歴史」がくりかえされてはならない。
スポンサードリンク